03. 今年最後のキス

 鶴子は両膝りょうひざをついて身を乗り出して小指を突き出してきた。


「なんだよ」

「約束です」

「約束……? なんの?」

「ただ、約束がしたいんです」


 戸惑いながらも小指を近づけると、鶴子は、小指をからませてぎゅっと結んでくる。ぎゅっぎゅっとリズムを取って、「ゆびきり、げんまん」と口ずさむ。


「幸せだなあ」


 鶴子は目を細めてほほ笑んだ。


 ぼくの小指で遊んでいる鶴子の黒髪を、ベッドに背をもたせかけながら、もう片方の手で優しくでる。


 撫でているぼくの方もこそばゆかった。こうすることで、ぼくに再帰してくる満足感があるからなのかもしれない。


「幸せだね」


 鶴子は飛びかかるように、ぼくの横から抱き着いて、上目遣いでじーっと見つめてくる。なにかを期待している、というより、当然のことをしてほしいと思っている顔だ。


 純然たる輝きがそこにはある。背中に手を回し軽く上体を起こさせると、口づけをした。暖房が勢いよくうなり出して、あたたかい空気が部屋中に広がっていく。


 鶴子の唇には、芯から湧き上がってくる温もりがあった。あらゆる感情が変移しては凝結し、また別の感情に取って代わる。


 ぼく以外にも生きているひとがいる。そんな安心感もあった。まったく理解できず代替もできない他者というものが、ぼくと同じ人間であるという確証を得ることは、意外にも難しいから。


 一秒、二秒と、大学ではそれくらいしかキスはできないけれど、いまはそんなカウントさえも忘れて、どちらかが満足してしまうまで、こうしていることができる。


 唇をはなして鶴子の顔をのぞくと、そこには、ぼくをのぞいている鶴子の顔がある。少し乱れた前髪を整えてあげると、なんでそんなことをするんですか、というふうに笑って、もう一度目をつむった。


 ぼくたちは、二度目の長いキスをした。


     *     *     *


 裏の公園にがした。真夜中の公園にひとがいないということを、強調して言いたくなるくらいに、気味悪く静まり返っている。青白い元旦の月光が小窓から斜に差し込んでいる。


「もう年を越したんですね」

「とっくにね」

「気づきませんでしたし、気づこうともしませんでしたね」


 鶴子はそう言ってくすくすと笑った。そしてふとんをかぶった。


 ぼくの顔までおおってしまった。掛けぶとんのなかで、ぼくたちは見つめ合った。ここには、新年の空気がまだ浸潤しんじゅんしていないような気がした。ぼくたちは今年最後のキスをした。


「明けましておめでとうございます」

「おめでとう」


 ぼくたちは手を握りあったまま、そして、べつべつのことを考えながら、眠りについた。


 ぼくの頭に浮かんでいるのは、指導教員から、修論を事務室に提出してよいという連絡がいつくるのだろうか、ということだった。1月9日が提出日だと考えると、大きなミスがあるとしたらとっくに訂正の要求をされているだろう。だから、心配しすぎる必要はない。


 ないのだけれど、やっぱりあの「第3章」の「注7」のことだけが気がかりだ。あってもなくてもいいといえば、それまでなのだけれど、いったいどうなることだろう。蛇足として退けられるか、これくらいなら構わないと許容してもらえるか。


 こうした不安を――ぼくのこころの機微を、なんとなく感じ取ってくれるのだろうか。鶴子は黙ってぼくの手をぎゅっと握ってくれた。


 ぼくも鶴子の手を握り返した。「大丈夫だよ」と答えたかった。「いつでも大丈夫って言ってあげますから」といわんばかりに、もう一度ぎゅっと握ってくれた手。その鶴子の手を、ぼくだけが握っているというこの時間が、どれだけ幸せで、かけがえのないことか。


 いまのぼくには、この一瞬を、幸せやかけがえのなさ以外の言葉で語ることができない。それくらいに、繊細な言語感覚が失われている。それでも、これ以上の言葉を使うほど、難しい感情を抱いているわけでもないのだと思う。


 実感としてそうであるということは、自分の体内にあるかぎりでは、大きな言葉でくくってしまってもいいのだ。

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