02. ぼくたちは、思う存分愛し合う
ぼくたちのスリルは、ひとつの部屋でふたりきりでいるときには、すっかり
「なんだか頼もしくなった感じがします。鍛えているんですか?」
「たぶん、太っただけだと思うけど……」
「腕も筋肉質になったような気がしますね」
気付かないうちに、ニュース速報が流れていた。なにかの作品が栄誉ある賞に選ばれたことだけは分かった。それでも漫才は止まない。リアルタイムのものが、収録された映像と重なる光景は、なかなかに奇妙だ。
鶴子は後ろから抱き着いたまま、テレビに映し出される奇妙な光景を見つめていたが、漫才番組が固有の時間を取り返すと、ぐいとぼくを後ろへと引っ張り、その
「どうしたの?」
「耳の中をのぞきたくなったので」
「なんだそれ」
綿棒が耳の穴に入ってくる。鼓膜に響いてくるのは、ガサガサといういったいどこから生じているのか分からない不吉な音で、ぼくはこの音が嫌いだった。
「綺麗」
それでも鶴子はぼくの耳の手入れを止めなかった。鶴子の太ももを感じているうちに眠くなってきてしまった。少しだけ固い感触がするけれど、芯から温かくてオルゴールのようなきれいな音が透明に響いていた。
「昨日、研究科の紀要に載っている先輩の論文を読み返していたんですけど、方法論としてドゥルーズを選んでいるのもおもしろかったですし、欧米の歴史書もたくさん読んでいるのもすごいなって思いました」
「
「一年半くらいの間、たくさん頑張ったんですね」
「どうなんだろう。自分の最終的な目標に向かって進んでいる、という感覚だけはあるかも」
鶴子は耳かきをやめて、右手でぼくの頭を「良い子、良い子」と
「先輩なら大丈夫ですよ」
「どうしたんだよ、急に」
「大丈夫だろうか、みたいな不安なこころを持っているって、知っていますから」
漫才のトリを飾るのは、ベテランの漫才師で、ぼくでも名前を知っているコンビだった。
「おもしろいですよね、このひとたち」
鶴子は、折り畳み式の
「笑うことも忘れるくらいにね」
「おもしろくないって言っているみたいに聞こえますよ?」
「そんなことないよ……すごいことだよ。ほんとうにすごい。ひとを笑わせることって、賢くないとできないから。不快にさせたり、悲しませたり怒らせたり……そんなことは、だれにでもできる」
テレビに出演している漫才師は氷山の一角で、この世にはたくさんのお笑い芸人がいることも知っている。ぼくたち「研究者」の数よりも多いかもしれない。
いったい、ぼくたちの何人が、ひとを笑わせることと同等なことをしているだろうか。もちろん、ぼくたちの使命は、そういうところにはないのかもしれないけれど。
「先輩の論文とか研究ノートとかを読んでいて思うんですけど、ふとしたときにヘーゲルに言及していますよね」
「
ヘーゲルというより、ヘーゲルの入門書を書いたコジェーヴとかを通して、彼へとアクセスしているみたいな感じなのだけれど、よくそんなところを拾い出すなと驚いてしまう。
「ヘーゲルの著作って難しくて、何度も読み返してもまだ、拾いきれていない議論もあるんだ。でもだからこそ、新しい発見もあってね。それが自分の研究に親和性がないこともないってことを、注記したくなるんだよ」
ぼくの修士論文の第3章の注7にはこのような記述がある。
――――――
(7)ヘーゲルはナポレオンの大遠征に歴史の終わりを見た。よく指摘されるように、冷戦崩壊などのエポックメイキングな出来事が起こるたびに、そこに歴史の終わりを見出す議論が生じる。しかし実際は、歴史は連綿と続いているわけだから、そうした言説に説得力を持たせるのは難しい。
しかしそうした反証によって、この手の歴史の終わり論を唾棄するのは建設的には思えない。事実ヘーゲルはより複雑な議論を展開しており、彼の議論の全貌の上にヘーゲルの歴史観を検討する必要がある。筆者が本稿を通して批判しているのは、広く流通している言説を吟味することなく俎上に乗せて議論する、一部の研究者のアティチュードである。
そして筆者は、ヘーゲルの議論にはもっと拓けた可能性があると考えている。しかし本稿では、紙幅の関係上、それを検討することはできないので、別稿に譲りたい。
――――――
修士論文はまだ受理されたわけではないけれど、この注釈は、ぼくの研究の「こだわり」を表しているから、削除の指示がないことを祈るばかりだ。
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