ただ、年を越す

紫鳥コウ

01. ナイショのお付き合い

 大学1年生の冬に、ぼくはたくさんの哲学書を読んだ。


 まずは、デカルトの『方法序説』からはじめた。西洋哲学を教えている教員が、オススメ図書として紹介していた。図書館の2階のポスターには、推薦人の黒川愛沙くろかわあいさ先生(当時は准教授だった)の簡単な要約が載っており、それを読むかぎりだと、哲学初学者のぼくにも、なんとなくは理解することができるという予感がした。


 先生の言う通り、理解しがたい内容というわけではなかった。しかし、完全に意味を汲み取れたわけでもなかった。それでも、いいも知れぬ感動があった。彼の議論に共感したからではない。一冊のを読み切ることができたからだ。


 次に取りかかったのはヘーゲルで、こちらはまったく理解できなかった。カント、ショーペンハウアー、フッサール、メルロ=ポンティ――と、哲学史のことなんてあまり考えずに、書棚で目に付いた本を手にしては、地下1階にある学習机のような一人用の席で読んだ。だけれど、内容をつかむことができた(と思った)のは、デカルトの『方法序説』だけだった。


 しかし、難渋なんじゅうな本も、何度も読んでいるうちに意味が分かってくるものだ。前読んだときよりも多くの知識が身についているからだろう。この哲学者は、だれのどういう議論を批判しているのか。当時の歴史的状況はどうだったのか。また、後代の哲学者はどのような評価をくだしているのか……などなど。


 どこか、ゲームをしている感覚だった。レベルを上げていき、新しいスキルを解放し、いろんなアイテムを使って能力を強化する……みたいな。そして大学院生になり、自分だけのアバターを作る必要に迫られた。他の人にはできない、自分だけの研究を、そして、自分にしかない考え方を、感性を、物事を見る角度を、育てていく必要があった。


 そして、大学院に入って2年目のいま――ぼくは、黒川先生の研究室に入って、哲学を軸にしつつも、分野横断的な色合いのある研究をはじめた。ある地域の歴史研究を哲学的に批判検討・分析するという研究だ。こういうことをしている研究者は、あまり多くない。だからかもしれないけれど、ぼくの研究への理解者はほとんどいなかった。


 しかしそれは、だれもぼくの代わりを務めることができない、ということでもある。そうした自覚は、ぼくをものすごく満足させた。めげることなく、自分の信じる道を進み続けよう。そう強く思わせるに足りた。


 さっき、ぼくの味方は少ないみたいなことを言ったけれど、こんなぼくを慕ってくれる後輩が、ひとりだけいる。


 八条鶴子はちじょうつるこ。ぼくが所属する研究科にこの春入ってきた、他大学出身の大学院生だ。


「お疲れ様です」

 大学図書館の地下1階。学習机風の一人席で修士論文の執筆を進めていると、後ろから声をかけられた。声の主は、学祭で圧倒的な票数で「ミス山吹大学」になった鶴子だった。


 鶴子は隣の席に腰を下ろすと、パソコンを取りだして電源を入れた。そして「眠い」と呟いた。鶴子は狭い通り道を隔てて作業をしているぼくの方へと手を伸ばした。ぼくはそちらを見ずに、ぎゅっと握ってすぐに離した。


 健闘をたたえ合っている――ように見えるけれど、これは、いまのぼくたちにできる「いちゃいちゃ」のひとつなのだ。ほんの一、二秒の握手で、ぼくたちはお互いの気持ちを交換し、愛情を確かめ合った。目を合わせられなかったのは、こっそりと付き合っているからだ。


 同じ研究室の後輩(それに「ミスコン優勝者」)と付き合っていることを公表するというのは、みんなが想像しているよりハードルが高い。嫉妬はもちろん、「大切な時期に遊んでいる」うんぬんという嫌味も言われるだろうし……なにより、こういう「ナイショのお付き合い」というものは、ぼくたちの関係を燃え上がらせている。


 いかにぼくたちの関係を、だれにもバレないようにするのかというスリルを味わうことができなくなったとき、もしかしたら、マンネリ化した、あってもなくてもいいような繋がりになってしまうのではないかという危惧もある。あるのだけれど、その危惧こそが、このスリルに緊張を与えている。


 消しゴムが床の上を小さく跳ねた。ぼくの方へと転がってきたそれを拾うと、しゃがみこんでこちらを見ている鶴子が目の前にいた。周りにだれもいないけれど、どこかにだれかがいるであろうこの空間で、こっそりと唇を重ねた。一秒、二秒……どれくらいが潮時だろうか。


 ほんの少しでも長く鶴子を感じていたい。だけれど、ずっとそうしてはいられない。書棚の間から足音が聞こえてきたから。

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