第18話 踏み出す一歩
「ひなた!」
桜の木に向かってグラウンドを全速力で走った。やっと近づいたところで、悪魔がひなたを抱えて地面に着地した。悪魔の腕の中のひなたは、猫を抱きながら脱力し、悪魔に頭を預けていた。
その光景は、あの時、クレール王子がこいつに首を噛まれた時と重なった。
まさか、まさか……! カッと血が巡る。心臓がバクバクと、鼓動した。
「……ッ!」
「いいね、その獰猛な目。手負いの獣みたい。あの時みたいに」
ひなたを悪魔から奪い返し、距離をとる。
「亜紀、落ち着いて。ちゃんと生きている」
律佳がすばやく脈をとった。生きている。言葉にされ、張り詰めた身体が少し緩む。ひなたの顔を覗き込む。呼吸は整っている。苦しんでいる様子もない。慌てたらこいつの思うツボだ……深呼吸をし、悪魔を睨みつけた。
「せっかく煽ったのに……つまらないなぁ」
つまらない、と言っているのに、悪魔はいやに機嫌良く笑い、ひなたの腕の中から飛び降りた猫を拾い上げた。
「……ひなたに何した……!」
「ひなたくんに悪魔だってバレちゃった。騒がれると人が来るかもだし、ひとまず眠らせただけ。しばらくすれば目覚めるよ」
そして悪魔は猫を撫でながら、俺を試すように、からかうように、不気味に笑った。
「そんなに焦らないで。記憶は消せる。その部分……都合いいところだけね。ふふ、俺は優しいから、亜紀くんに選ばせてあげる」
口は「何を」と紡ごうとしていたが、悪魔がこれから言おうとしていることは、頭では理解していた。溜まった唾をごくりと飲み込む。
「大切な人の記憶……あんたは書き換える? どうする?」
すぐに言葉は出てこなかった。知らず知らずのうちにひなたを抱える手が震えていた。
記憶を選ぶなんて……
「あ、亜紀……!」
唇を噛みしめ、眠るひなたの首もとに頭を沈めた。ぐるぐると頭が回転した。俺はひなたを守りたい、過去の記憶から。記憶を消せば、過去を思い出す可能性は低くなる。でも、それは……
顔を上げ、妖艶に光る真紅の瞳を真正面から直視した。
「記憶は、消さない」
「……へぇ、いいんだ?」
悪魔は冷笑交じりに口角を上げ、鋭く見つめ返してくる。俺の反応を楽しみに待っているんだろう。お前なんかの予想通りにさせてたまるか。
「悪魔のことを知ったのがきっかけで記憶が戻ってしまうかもしれない。でも、”ひなた”が経験した現在を奪うことはしたくない。そんなの俺の自分勝手だ」
「亜紀……」
律佳にたくさん心配かけて、自分勝手なことばかりしていたって気づいた。
「王子と過ごした日々は大事な思い出だ。最期はお前のせいで散々だったが……過去ばかり考えて、ひなたと過ごす今をおろそかにしたくない」
会長だってつらい過去を経験しているのに、前を向いて歩いている。覚悟を込めて、力強く悪魔を睨んだ。
「俺は、ひなたと前に進むって決めた。過去に、お前に、縛られない。ひなたを必ず守ってみせる!」
悪魔は少し動きを止めた後、くす、と笑った。
「ふーん、なるほどね。それがあんたの選択か……じゃあお望み通り、記憶はそのままにしてあげる」
「今後、勝手にひなたの記憶をいじらないって約束しろ」
「いいよ、悪魔に二言はなし!」
茶化しやがって……! 悪魔の腕の中の猫はずっと撫でられて、気持ちよさそうにうとうとしている。なんで懐いているんだ、意味わからん……!
「亜紀!!」
「うわぁ! ……いきなり飛びつくな! ひなたを落としそうに……て」
飛びついてきた律佳は、ぼろぼろ涙を流していた。
「おい、律佳どうした……お前今日泣きすぎじゃね……?」
俺も人のこと言えないんだけど……律佳の顔を覗き込むと、真っ赤な顔がぐいっと近づく。
「亜紀、強くなったね……! その決意、とってもかっこいいよ……僕は……っ 何があっても亜紀の味方だから……! 亜紀の選択がどうなっても……!」
「……律佳のおかげで、別の視点に気づけたというか、お前が見てくれてるって思えたら安心したというか……とにかく、律佳と会長のおかげ。だから感謝してる。ありがとう」
「あ、亜紀~~~~っ!!」
泣きつく律佳を諫めていると、悪魔はつまらなさそうに口を尖らせた。子猫は悪魔の腕の中ですっかり眠っている。
「なーんか、雰囲気変わった? 生徒会長さんに呼び出されて、仲を深めたのかな? 前までの亜紀くんだったら『バレてんじゃねーよ!』って怒って俺を責めて記憶を消すっていうと思っていたのにな」
前までの俺なら、きっとその通りになっていたと思うけど……
「……お前が悪魔の力を使って助けなければ、ひなたは大怪我をしていた。だからお前のせいでバレたとは責めない。……認めたくないけど、今回は、助かった」
最後だけはどうしても小声になり、目をそらした。お礼なんか絶対に言いたくなかったけど、言わないのは培われた騎士道精神に反するし……
どうせ馬鹿にしてくるだろ、と予想していたのに、なかなか声が返ってこず、再び視線を悪魔に戻す……
「……感謝されちゃった。仇の悪魔なのに」
と、瞳をまん丸に見開いていた。今までの余裕が1ミリも感じられず、こっちまで呆気にとられた。
気が抜けていたことにハッとした悪魔は、眠る子猫を持ち上げて顔を隠したが、子猫ではいまいち隠しきれていない。子猫は眠りを邪魔されて嫌そうにしたが、持ち上げられたまま再び目を閉じた。猫の体の端から見える白い頬は赤く染まっていた。
「お礼を言われるのって、なんか、くすぐったい……」
「礼を言うのは今回だけだ! もともとお前がいなければこんなことには……!」
悪魔は顔の正面に構えた猫を少しずらし、ちら、と片目を覗かせる。
「それ、ツンデレってやつ?」
「ちっがう!! ああもう、俺はひなたを保健室に運ぶから!」
ひなたをお姫様抱っこにして、校舎に向かって歩きだす。
もしひなたが前世を思い出してしまったとしても、ちゃんと受け入れる。俺が首を切ったことも逃げ出したことも全部話す。
だから、早く目覚めてくれ……
「ゆらゆらと気持ちが揺れ、移りゆく……だんだんと亜紀くんのことが読めなくなってきたなぁ。そういうところ、ますます好きになっちゃう……」
「てめぇに亜紀を語る資格はない。亜紀が手を汚す前に俺がてめぇの存在を消してやる」
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