第17話 桜に映える黒い翼
「おかえりぃ。いい話はできた? あれ、どうしたの? そのほっぺ」
誰もいない教室でひとり座って桜の木を眺めていた悪魔が振り返った。クス、と笑って妖しく犬歯を覗かせた。
「お前には関係ない」
痛みの引いた頬の冷えピタを剥がす。
「……ひなたはどこだ」
「知らない。まだ戻ってきてないよ」
「ひなたに何かしたんじゃないだろうな!」
職員室での話がこんなに長引くわけがない。悪魔は余裕ぶって足を組みなおし、ひなたの席を指さす。
「ひなたくんのカバン、まだ残ってるでしょ? ほんとにまだ戻ってきてないんだよ。俺はこうしてひとり寂しくみんなを待っていたの」
「嘘をつけ……っ」
掴みかかろうとした腕を律佳に止められ、引き寄せられた。律佳の腕が腰にまわる。滅多に触れられる機会のない場所だったから少し驚いてしまった。
「こいつに近づいてはいけない。危険だ」
「でも、ひなたが……!」
腰に回った手がさらに強くなる。律佳はじっと悪魔をにらみつけている。ヒリヒリと刺さるような空気。悪魔は面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「へぇ、なに? ボディーガード気取り?」
「そうだ。俺は亜紀を守る。てめぇには触れさせねぇ」
……え、”俺”、“てめぇ”……!? 律佳の顔を見上げるが、恐ろしい顔つきで悪魔を睨んでいて、こっちを見る気配はない。ブチ切れている。一人称も二人称も変わってるんだが!?
「亜紀くんと話すの、邪魔しないでくれる?」
「てめぇに亜紀と話す権利はない。今すぐ葬ってやる」
「はは、亜紀くんにその乱暴な口調バレちゃうよ。いいのかなぁ?」
触れ合った肩がピクリと跳ねた。ものすごい剣幕だった律佳は俺のほうを見て、嘘みたいに物柔らかに微笑んだ。
「亜紀、大丈夫だよ。もうなにも背負わなくてもいい。僕がいるから」
「えっと、あの……」
守ってくれるのはありがたいけど、やっぱり……なんか怖い!!
「清々しいほど人が変わるねぇ。亜紀くん、ぷるぷる怯えちゃってかわいいね。ほーら、こっちおいで、律佳くんより優しくしてあげる」
「だめだ亜紀。悪魔の言葉に耳を傾けてはいけない。僕のそばにいて」
ふたつの強い視線が注がれる。なんだこの状況。放っておいたらいつまでも続きそうな硬直状態を破るべく、身をよじる。
「や、俺はひなたを探しに行きたくて……」
すると窓の外、視界の端に動く人影が映った。
「ひなた……!?」
窓に駆け寄り、鍵を開けて身を乗り出す。
グラウンドの向こうの大きな桜の木。そこに近づき、登ろうとしているひなたの姿があった。
「え、どこ?」
隣で覗きこむ律佳にわかるよう、指をさす。
「あそこにいる人? 僕にはひなたくんだと認識できないけど……」
「俺、目いいんだよ! あんなところに登るなんて……なにして……」
「猫がいるね。木の上の方」
悪魔はいつのまにか同じように隣の窓を開けている。木の上に視線をあげると、黒くて小さい塊が見えた。あれが猫だろう。
「猫を助けようとしてるのか……!」
あの桜の木は大きい。10メートル以上はある。もし落ちたら無事では済まない。
「ひなたーっ!! 俺が行くから、待てー!」
大声でひなたに呼びかける。ギリギリ声が届いたみたいで、振り返ったひなたは腕で大きな丸を作って、木に足をかけた。
「ダメだ、内容までは聞こえてねえ……!」
今すぐに木の下まで行きたいが、あそこまで行くのに5分はかかりそうだ。落ちないようにと願いながら見守るしかできない。
しかし、嫌な予感は当たるのか。猫を抱えた瞬間、ひなたはバランスを崩した。反射的に窓から乗り出した身を、律佳の腕が抱き止めた。
「ひなた……っ!!」
ひなたの身体が落下していく。俺は……またひなたを守れなかっ……
「任せて」
窓に足をかけた悪魔は自信に満ちた表情で、躊躇うことなく飛び降りた。その瞬間、悪魔の背中に真っ黒の大きな羽が広がった。
バサ、と一度その場で羽ばたいてから、そのままスピードを上げ一直線に桜の木まで飛んでいく。その姿は、大きな黒い鳥が飛んでいるようにも見えた。
地面に落ちる寸前でひなたを抱きとめた。再度上昇し桜の木の幹に着地した。
一瞬の出来事。何が起こったのか分からず、唖然と言葉を詰まらせた。代わりに律佳がかすれた声をあげた。
「悪魔が、助けた……」
風に揺られて舞う桜の中に、闇のように黒い羽が混じっている。異質な光景だった。
「……ッ!」
「亜紀! 僕も行くよ!」
あっけにとられていた頭が覚醒すると同時に、俺は教室を飛び出した。
*
……痛くない。誰かに抱きかかえられている感触。ひなたは痛みを覚悟して強く閉じていた瞼をそっと開く。
「……ん? って桜花!?」
開いた視界には、今日知り合ったばかりのクラスメイトが自分を抱きとめながら微笑んでいた。ひなたは大きな瞳をさらに広げ、ぱちぱちと瞬きを繰り返す。
「大丈夫? ひなたくん」
「うん、大丈夫……猫も無事だ。桜花が助けてくれたのか……」
腕の中で丸まっている黒い毛並みの子猫と目を合わせた後、ひなたは周りを見渡す。でも目線は地面よりも高くにあり、桜の枝に視界は覆われている。ここがまだ木の上であることに気がつく。だんだんと、今の状況がとてつもなく異常だ、と思考が追いついてくる。
「え、ここ木の上……? どうやって、助け……」
もう一度クラスメイトに視線を移したとき、肩に真っ黒のものが見えた。大きな黒い羽が生えている。ひなたに挨拶をするようにそれはバサ、と動いた。
「……っ!? なに、は、羽……!?」
「あ、隠すの忘れてた。任せてとか言っといて、けっこうギリギリだったからなあ……」
途端に青ざめていくひなた。ひなたにとっては信じられない光景だが、悪魔にとって羽を見られるぐらい日常茶飯事。ひなたの様子を気にもとめず、軽く首をひねった。
そして、悪魔姿になったことで長くなった牙を覗かせて、にこりと笑った。
「……ひなたくん。俺はね、悪魔なんだ♡」
「あ……悪魔ぁ!?」
張り上げたひなたの声に腕の中の猫がピクッと耳を動かす。悪魔はそのままひとり言をつぶやく。
「うーん、早々にバレちゃった。ま、せっかく追いかけて来たのにここで死なれちゃ残念だし、助けてよかったかな」
「あくまって……!? どういうこと……だ……」
桜吹雪の中、悪魔の赤い眼が怪しげに、ぼうっと光った。その光を見つめたひなたの思考は、ぼんやりと濁りだす。
(あれ……なんか、急に、眠たく……なんも考えれな……)
「ちょっと眠っててね」
「ん……」
囁きと同時にひなたの意識が落ちた。自分の体にこてんと預けられた丸い頭に、悪魔は口づけを落とした。
「ふふ、眠った顔、無防備でかわいいねぇ」
白い首筋……きめ細やかな肌、透けて見える青い血管。目に入ったそこに真っ赤な舌を這わせる。くすぐったいのか、ひなたは眠りながらも体を震わせた。
(そう、ここに俺は噛みついた……あまりにも美味しそうで……あぁ、何も変わっていない。こんな近くで見たら今すぐ食べたくなってきたな……いや、でもやっぱり勿体ないよなあ……どうしよう……♡)
悪魔は目の前の無防備な獲物を前にして、全身がゾクゾクと悦んでいるのを感じた。今すぐ獲物に齧り付きたい衝動と、ここで失っては惜しい、という相反する情動、そのものに興奮をしていた。
そのとき、腕の中の王子様のことを呼ぶ声が悪魔の耳に届く。足音とともにだんだんと大きく近づいてくる。
「あーあ、もっと堪能したかったけど……さすが騎士クン、ご到着が早いな」
元騎士団なりに鍛えているんだろう。足がお速い。最後にもう一度、麗しく眠る王子様の額に口づけを落とす。
悪魔は羽をしまい、ひなたを抱えたまま桜の木から飛び降りた。
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