juvenile in midnight③
やがて、一つの部屋の前に着くと、霞さんはなんの躊躇いもなく、部屋を開けた。
廊下の奥からは明かりが小さく漏れていて、生活感のあるそれが余計にあたしの恐怖感を助長した。本来は生活感があれば安心するはずなのに。そんなことを思えば思うほど、あたしの背中には嫌な汗が浮かぶ。
「帰ったでー」
霞さんはあたしをほっぽりだしてさっさと家に入ってしまう。今なら逃げられると思ったが、脚が恐怖ですくんでいるのが分かる。こんなことなら、サラリーマンに抱かれていた方が何倍もマシだった。
「あーおかえりぃー」
廊下の向こうにある暖簾の奥。光の中から霞さんとは違う、間延びした女性の声が聞こえる。
「なんやまだ出来てへんのかいな」
それから呆れた霞さんの声も。
「だってしゃーないやん。フレーズなんてそんなぽんぽん出来るわけあらへんよー」
「アホ言いな」
そんな楽しげな会話に少しだけ恐怖感が和らいだ気がした。いや、これが作戦なのかもしれないから油断は出来ない。
「何しとるん? 入りぃ」
霞さんは暖簾を掻き分けて顔を出し、あたしを呼ぶ。逆光で表情が見えなかったせいだろうか。あたしにはまるで夜が呼んでいるように見えた。
外には人攫いの人がいそうだったから、あたしはおっかなびっくりとだけれども、お邪魔することにする。孤独なときや恐怖を感じたときに、少しでも親しみやすい人といたいと思うことはとても自然なことではないだろうか。ただ、そこの弱味に付け入られて攫われると言われてしまえばそれまでなんだけどね。
安物のスニーカーを脱いで、あたしは光の中へ歩いて行く。
麻で作られたであろう暖簾はとても軽くて、少しだけ今が夏なのだと言うことを思い出させてくれた。
部屋に入ると、霞さんと女性がもう一人。バッチリと着こなした霞さんとは対照的に、もう一人はごちゃごちゃとした柄のシャツに、スウェットというラフな出で立ちだった。まあ、あたしも七分丈のシャツにスキニーデニムパンツだから、そこまで大差無いんだけどさ。
「あっどうもー」
もう一人が眠そうな顔であたしを見る。のんびりという言葉を人にしたら、そのままこの人になりそうだと思った。
「……どうも」
「クールな子やなあ」
彼女はそう言って笑うと、隣に立つ霞さんを見た。
「なんや霞ちゃん、そないな趣味があったん?」
「あ、アホ言いな香織! 偶々や偶々!」
霞さんは顔を朱く染めて否定する。元々が色白のせいだろう。朱色がとても映えて見えた。
「優子ちゃうからな! うちにはそんな趣味あらへんからな!」
全力で否定するとますます怪しい。そう思うと、知らずしらずのうちに口を押さえて笑っている自分がいた。
「優子ちゃんはそんな風に笑うんやねえ」
香織と呼ばれた女性は抱えていた赤色のエレキギターを脇に置くと、垂れ気味な瞳であたしを見た。
「私は伊瀬香織言います。香りを織ると書いて香織。よろしゅーね」
香織さんは手をひらひらさせると、もう一度霞さんを見た。
「で、この子はどうしたん?」
口調は相変わらず静かだったが、目の温度が少しだけ冷えたように見えた。
「えーっと……あの……優子。任せた」
「えっ?」
あたしの驚きも何処吹く風。霞さんは煙草を取り出すと急いで火を点けた。先程と同じ、甘いバニラの香りが部屋に漂い始める。開け放たれた窓際で吸ってくれているあたり、あたしのことも少しは気を使ってくれているのだろうか。
「もう……霞ちゃんは……」
香織さんはやれやれと言いたげにそう呟くと、あたしを見た。
「こんな子やけど堪忍してな。ほんまはごっつええ子やから」
「はあ……」
伏し目がちに霞さんを見ると、彼女はそっぽを向いて相変わらず煙草を燻らせていた。
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