scarlet philosophia②

 一瞬何が起きたのか分からなかった。


 ただ、いつもの通り下を向いて家に帰っていると、突然背中を押される感覚がして、地面に気が付いたら、地面に倒れてしまった。一瞬遅れて来た痛みに、目からは涙が溢れてくる。


「やーい! 泣き虫ルーベンスゥー!」


 そんな声と共に、数人の意地悪な笑い声が聞こえてくる。それだけで後ろを振り向かなくても分かってしまう。


「な、なにするんだよ……」


 勇気を出して発した僕の声は、情けなくも涙声になっていて、またそれがあいつらの笑いの種となった。


「おい、泣き虫ルーベンス。お前また泣いてんの? なっさけねー!」


 一人が僕の目の前まで近寄ってきたかと思えば、勢いよく僕の耳を引っ張る。


「痛いよ!」


 僕の悲痛な叫びも、彼らからすれば、ただのおもちゃのような物らしい。


「痛いよ! だってよー!」


 彼の言葉に、また周りはゲラゲラと笑い出す。少しも似ていない物真似に、僕は苛立ちを覚えるも、言い返すことは出来ないでいた。


「おい、なんとか言えよ泣き虫ルーベンス」


 声変わりが始まる前だというのに、低く抑えた声が僕の身体を強く震わせる。恐怖で萎縮した僕の喉からは、反論の代わりに間抜けな息が漏れ出ただけだった。


「金髪のくせにもじゃもじゃ頭。それに加えて泣き虫なんて本当にだっせえな」


 やがて、僕で遊ぶのにも飽きたのか、彼はそんな台詞を吐いて僕を突き飛ばすと、後ろにいる数人と共に笑いながら去って行った。


「……くそっ……くそっ……くそっ!」


 僕は彼らの姿が見えなくなると、拳を強く地面に何度も何度も何度も殴りつけた。今泣いているのは奴らのせいなんかじゃない。何度も地を殴り、血が滲んだこの拳の痛みのせいなんだ。僕はそう必死に自分に言い聞かせた。


 僕は嗚咽を堪えつつ、よろよろと立ち上がる。


 ――どうして僕は泣き虫なんだろう。


 とぼとぼ歩みを進めながら、毎日毎日繰り返し考えている事を思う。もじゃもじゃの髪をくしゃりと乱すと、いつも母親が「死んだ父さんと同じ髪型でお母さんは嬉しいよ」と言ってくれるのを思い出して、僕はまた泣きたくなった。


 自分が泣き虫だから皆にからかわれるんだ。一度そう考えてしまうと、もう止まらなくなってしまう。涙が幾筋も後から後から溢れ出てきて、頬を伝い、地面を濡らす。声を上げるのは悔しかったから、僕は歯を食いしばって、下を見つめながら歩き続ける。


 一歩、また一歩と歩みを進める度に、地面には情けないシミが、僕の歩いてきた道を記すように残った。


 どれくらい歩いただろうか。やっと落ち着いてきた涙を服の裾で拭いながら、そんなことを考えた。いつも通りの道を歩いたという自覚はない。けれど、自分の家の近くなのには変わらないだろうと思い、ふと顔を上げた。


 だが、視界を埋め尽くしたのは見慣れた村の風景では無く、鬱蒼とした森だった。


「あ、あれ……」


 きょろきょろと辺りを見渡しても、自分をぐるりと囲むものは全て暗い色をした木々で、そこには人の気配はどこにもなかった。


 ここは何処だろう。そう考えた次の瞬間には、答えがすぐに頭の中に浮かんできた。だが、それを受け入れることは出来ず、僕は何度も首を左右に強く振る。


「――《人喰い森》」


 それでも、確かめるように、声に出した瞬間、恐怖が足下から這い上がってくるように感じられた。嫌な汗が浮かんできて、僕の背中を幾筋も滑り落ちていった。


「あっ……あっ……」


 元来た道を戻ろうにも、辺りには森が広がっているだけで、何処をどう通れば村まで帰られるのか、今の僕には到底見当も付かなかった。


「うわあああああああああああああああああああっ!!」


 僕は纏わり付いた恐怖を振り払うかのように叫ぶと、一目散に駆け始める。小枝が僕の頬を切り、その傷みで目に涙が滲む。


 助けてたすけて助けてタスケテたすけてッ!


 一心不乱に走り続けながら、幼い頃から耳にたこが出来るまで聞かされた長老の言葉を思い出す。


『いいかい? 子どもの間は《人喰いの森》には入ってはいけないよ』


『どうして?』


 無邪気な声が長老に投げられる。長老はそれを優しい笑みで受け止め、口を開いた。


『森には怖いこわーい化け物がいるからさ。化け物は柔らかい子供の肉が大好きで、迷い込んだ子どもを喰っちまうのさ』


 長老の、わざと声のトーンを落とした声は、妙に迫力があって、僕は背筋を振るわせたのを覚えている。


 ここは間違いない。長老に言われていた《人喰いの森》だ。早く逃げないと、僕は化け物に喰われてしまう。早く、早く、早くここから逃げださなければ。


 嫌だ! 僕はまだ死にたくないんだ! 僕は自分に言い聞かせるように徐々にふらつく足を必死に動かし続けた。だが、子供の体力など知れた物で、僕は偶々顔を出していた木の根に思いっきり躓いてしまった。


「――――ッ」


 痛みに歯を食い縛りながらなんとか立ち上がるも、耐えきれず、すぐに地面にへたり込んでしまう。なんとかしてはやく出口を見つけないと。僕の頭の中ではそれだけがぐるぐると渦巻いていた。


 だからこそだろう。葉の擦れる音が僕の心をざらりと舐めた。


「だ、誰かいるの……?」


 震える声で訊ねるも、向こうからは何の返事も無い。ただ、近づいてきているのであろう。葉の擦れる音だけが少しずつ大きくなっていった。逃げだそうにも、僕の足はすっかり震えていて、とても動けそうに無かった。


 あぁ、僕はここで死んでしまうんだ。お母さんごめんなさい。僕は強い男になる前に化け物に喰われて死んでしまいます。お母さんを一人にさせてしまうけれど、どうか許してください。


 音の正体が間近に迫ってきているというところで、僕はぎゅっと目を閉じる。しばらくそうしていたが、一向に襲ってくる気配は無かった。それを不思議に思い、恐る恐る目を開く。


 すると、そこには想像していた化け物の姿は無かった。代わりに褪せたクリーム色の外套に身を包んだ、整った顔立ちの女性が枝葉を掻き分けて格好で立っていた。この村では見たことがない。なんだか本の中で見たことがある、東洋の人に顔立ちが似ているような気がした。


「こんな場所で何をしているんだい?」


 女性はまるで世間話をするかのような気軽さで、小首を傾げながら訊ねた。しかし、彼女の目は何処までも退屈そうで、彼女にとっては僕なんかがここに居ることなどどうでもいいのだろう。


「あ、あの……僕は……」


 声が喉に張り付いてしまって上手く出すことが出来ない。女性はそんな僕を見て、やっかいな物を抱え込んだとでも言いたげな深い溜息を吐いた。それから彼女は草むらから出て来ると、へたり込んでいる僕に様々な物を見透かしてしまうような、澄んだ瞳を近づけた。


「迷子かな?」


 女性は相変わらず退屈そうな目で僕を見つめながら、そう訊いた。近づいてきた彼女から、一瞬だけ花のような甘い匂いが流れてくる。


「ここは君のような子供を食べてしまう、怖い怪物の住む《人喰い森》。そう長老様に習わなかったかい?」


「な、習いました……」


 僕はその言葉と共に、何度も頷くことでちゃんと分かっていることを伝えようとした。だが、それは逆効果だったようで、女性は少しだけ顔を顰めると、ゆっくりとした動作で立ち上がった。かと思うと、陶器のように白い手をすっとこちらに差し出した。


「ほら、掴んで」


 僕は言われるままに彼女の柔らかな手を掴んだ瞬間、強い力で引っ張られた。僕はその力を頼りによろよろと立ち上がる。


「で、君はどうしてこの森に?」


 僕が立ち上がったのを見届けると、女性は欠伸を噛み殺しながら質問をした。僕は一瞬話すことを躊躇したが、隠しても仕方が無いと思い直し、ここに来るまでの経緯を掻い摘んで説明した。すると何が面白かったのかは分からないが、彼女は腹を抱えて愉快そうに笑った。


「申し訳ない。まさかそんな理由でここに迷い込むとは思わなかったんだ。気分を悪くしたなら謝ろう」


 僕は別に気分を悪くしたわけでもなければ、怒りを覚えたわけでも無かった。ただ、心の底から楽しそうに笑う彼女に驚いてしまっただけだ。


「別に、そういうわけでは……」


 気がつけば僕の心からは既に恐怖心はなくなっていた。あるのは、目の前にいる彼女への興味だけだった。


「ならよかった」


 女性は小さく息を吐いて気持ちを落ち着けると、今度は少しだけ怪しげな笑みを浮かべた。


「君はこの森に何が出るか聞いたことがあるかい?」


 女性は人差し指を立て、その指をくるくると回した。


「化け物じゃないんですか……?」


 僕の答えに女性はクスクスと笑う。


「この森にはね、怖い魔女が出るんだよ。ちょうどそう――わたしみたいなね」


彼女の言葉が言い終わった瞬間に、彼女の背後から強い風が僕を襲う。その時、少しだけ彼女の背中に、大きな悪魔のようなシルエットが見えたような気がして、僕は思わず後退ってしまう。


 女性は一度ふっと息を吐いたと思うと、今度は口を大きく開けて笑った。


「冗談だよ。半分くらいは」


 半分? 僕はその言葉に恐怖しながらも首を小さく傾げる。しかし、女性はそんなことは少しも気にも止めずに、落ち着いた動作で、ずっと彼女の頭部を覆っていたフードを脱いだ。


 ――まるで火のように、美しい、緋色をした髪が揺れる。


 僕はその髪を見て、ただ、綺麗だ、と思った。


「わたしの名はスズナ。緋色の魔女さ」


これが、自らを「魔女」だと言う、スズナとの出会いだった。

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