まつろわぬ神

佐藤山猫

第1話

 死んだ伊藤が言っていた。


「日本にはアニミズムという信仰がある。人間以外のありとあらゆる存在に神様が宿っているという考えだ。森の神、山の神、海の神、家の神、犬の神、虫の神……。多神教の一種だな。みんなも、山の神だとか言われてゲル状の鹿巨人とか出てきてもそういうものかと受け入れるだろう?」


 有名なアニメ映画なんかを例示しながら、伊藤あいつは授業の本筋から逸れていった。

 そんな伊藤も、廊下で窒息死するとは思わなかったことだろう。


 昨年くらいから日本全土で、万物が人間を攻撃し始めた。

 それは、明らかに意思を持っていた。ネクタイはひとりでに人を絞殺せんと首をきりきり絞めあげ、包丁はそれを手繰る人の筋力から抗い翻って身体を裂傷し、火は愉しくなって家具家財に燃え広がった。

 一部は声明すら出していて、曰く、「虐げられてきた我々が驕りきったヒトへ復讐を果たす時だ」という。

 出典もようと知れないその声明は、しかし驚異的な速度で人口に膾炙し、さもありなんと世間に受け入れられつつあった。

 当然、やつらに唯々諾々と従う訳にはいかない。

 政府と自衛隊と、その他警察組織が中心となって対策が開かれたが、すぐにその雲行きは怪しくなった。

 なにせこれまで平然と使用していた道具がいきなり、使用者の意図を無視して殺傷兵器に変化してしまう。箸が目を狙ったというニュースを聞いて、わたしは引きつり笑いを起こしそうになった。

 対処療法しかないわけだが、それも「この道具は今のところ大丈夫」というあいまいな根拠に基づくしかない。神様に祈念すると謳ったとある宗教施設は、儀式の最中で「注連縄の神」に抗われ関係者郎党が下敷きとなった。

 西洋由来の日本では歴史の浅い道具はまだ化身する危険性が低いだろうと噂されているが、それでも伊藤はネクタイの神にその首を絞められて死んだ。服なんて着ていられるかと、裸族が公然と増えた。一々公序良俗で騒ぎ立てるのも困難なほど、増えた。


 そういえば、伊藤に一年生の時に習った評論にこんなのがあった。『日本は自然と共に生き、西洋は自然を征服する』。どうにも日本人だって自然を服従まつろわせている気がすると、妹が作者と伊藤に文句を言っていたのがほんの数日前のことに想える。


 早くから自然を征服してきた海外では、確かにこの手の被害は報告されていない。自ずと、移住という名の海外逃亡を図る人が増え、自国にどんな影響が出るか分からないと入国を拒否される事例も増えた。日本人が難民化する世界線なんて、一年前には想像もつかなかった。

 まだ歯向かってこない電子機器に感謝をささげつつ、わたしは暗いリビングでラップトップを起動する。何年も海外に単身赴任中の父は、ついに日本に帰ることをやめたらしい。娘ふたりも高校生だ。帰ってこないという一個人としての判断を尊重する──それくらいの分別はつく年齢だ。


「こっちも日本人排斥運動なんかが起きたりしていて大変だよ」


 時差で昼夜は逆転している。向こうでの朝の慌ただしい時間に通話を繋ぐ。フォークとスプーン。ミルクとシリアル。眼鏡とワイシャツとネクタイ。レースカーテンの向こうから柔らかく注ぐ陽光が青白い液晶越しにも眩しい。


「でも日本はもっと大変だろう。今すぐにでも引き取りたいくらいだけど。美里はどう?」

「わたしはいいわ」

「そう。お母さんにも優奈にもよろしく言っておいてね」


 父はそう言って通話を切った。わたしは締め切ったカーテンに近付くこともできない。この瞬間にもカーテンの神が征服からの解放を企図するかもしれないからだ。とはいえ、恐れていては何もできないのだけれど。

 父はもうしばらく、母にも妹にも会えていない。画面越しにもだ。「海外に高飛びして、安泰な暮らしをしているお父さんが憎いんだよ」と説明して、父も寂しそうな顔で今のところ納得してくれているけれど、これは半分しか真実ではない。母は確かに、父に愛想を尽かして他の男のところへ逃げていたけれど、優奈は違う。


 病院に向かうと、健全に使われ続けている医療道具に囲まれて、優奈が昏睡状態のままベッドの上に仰向けだ。万が一のため、衣服は全てはぎとられている。点滴も酸素マスクも、いま反抗してくれれば一巻の終わりだ。

 優奈は一年前、交通事故に遭って昏睡状態に陥った。演劇部の練習の帰りだった。搬送され、一通りの延命装置が始められて直ぐに、万物の人間への反抗が始まった。


 既に家庭を顧みていなかった母も、不倫相手の家から自宅を経由して病室へ駈け込んで来た。


「ゆなちゃん! ゆなちゃん!」


 泣き腫らす母を見るわたしの目は冷たかった。病室の入口で、気まずげに佇む間男のことが気に障って仕方がなかった。空気を誤魔化そうと点けたテレビでは、突然日本付近の大気状態が不安定となり、空路と海路が封鎖されたと報じられていた。各神が日本人に牙をむいた、その最初の事件だった。


 優奈の病状は、未だ回復の兆しを見せていない。


「優奈ちゃん、どうですか」


 声に振り向くと、優奈の同級生だった何某さんが制服を着て立っていた。


「変わらないわ。ええと……」

「田辺です」

「田辺さん。わたしは姉の──」

「知っています。美里先輩」


 田辺さんは「失礼します」と優奈の傍に腰かけた。


「このご時世だから、治療してくれるだけでもありがたいわ」


 何となく気まずくなって、わたしはそう雑談を仕掛けていた。


「優奈ちゃん。初めて自分の脚本が採用されるっていうので、ものすごく喜んでいたんです」

「演劇部で?」

「はい。中学の時からだから三年間ずっと、『自分の書いた本の演劇を見てみたい』って言ってました。去年の学園祭でやるはずだったんですけど」

「去年は中止になったものね。これのせいで」


 優奈の裸身を顎で示すと、同性でもさすがに躊躇われるのか、田辺さんは優奈を一瞥しただけで少し頬を赤くして頷いた。


「それ以来、なんとなくその本は劇にしにくくて。部員も何人か、辞めちゃいましたし」

「今まともに部活をやろうってのも難しいわよね」


 社会の混乱がひどかったときは、部活をはじめあらゆる学校行事・社会生活が凍結されたものだ。商店から商品は消え、銀行預金はすぐに引き出され、犯罪率は急速に上昇した。

 ようやく沈静化し、この歪な社会の中で普通に生きていこうと、動き出したのも最近のことだ。演劇部の部室のあった、旧校舎の解体工事も再開した。


「演劇部も再始動したいなって。優奈の書いたこの本で」


 がさごそと、トートバッグの中を田辺さんは探っていた。横目ですら見ず、わたしは水を差す。


「今年はまだ、学園祭やるかわからないけど」

「あった。これです。美里先輩」


 ぽん、とわたしの膝の上に置かれる本。コピー用紙を無理矢理閉じたような、遠足のしおりじみた作りだった。タイトルは『まつろわぬ神』。


「アニミズムをテーマにした作品なんです。演劇部の顧問、伊藤先生だったから。影響されちゃって」

「……あいつ、どの授業でもそんな話していたのね」


 国語教師の癖に常にワイシャツにネクタイを締めて白衣を羽織っていた中年教諭の姿を思い出す。


「この本、読んでみてもらえますか」


 田辺さんは真剣な表情で、強い調子でわたしに訴えかけてきた。


「物語の良し悪しなんて、わたしには分からないけど……」

「違うんです。登場人物に注目してみてください」


 脚本特有のト書きに、役の名前が当てられている。風の神、包丁の神、火の神、箸の神、注連縄の神、ネクタイの神……。

 貪るように最後まで読んで、ぱたんと本を閉じた。結末の部分だけ、白紙だった。


「──美里先輩」


 田辺さんの真剣な表情の意味が腑に落ちた。


「これは、もしかしたら世界すら救うかもしれないわよ」

「……そうなんです。これをぜひ学園祭で。生徒会長の力で」

「買い被りすぎよ。でも、これは材料になるわね。みんなを説得する」

「はい。それはもう」


 田辺さんは力強く拳を握った。


「気付いてから、わたしたちで通して演じてみました。声に出して身振りもつけて結末も補完して。でもだめでした。世界は何も変わりませんでした。だからきっと、舞台が整っていないのだと思いました」

「なるほどね……。優奈はどんな結末を望んでいたのかしらね」

「それはもう、大団円のはずです」


 田辺さんはくしゃっと笑った。


「そうでないと困ります」
















 


 尽力の甲斐あってか、学園祭は無事に催されることとなった。


 無理を言って、病院から優奈を借りてきて、客席へ運ばせる。演技をするのは演劇部。当時のメンバーをなんとか集めて、演劇の舞台は整った。


「優奈。始まるわよ」


 わたしは優奈の手を強く握った。

 馬鹿馬鹿しいかもしれないが、もしかしたら世界の命運はいまこの瞬間にかかっているかもしれないのだ。


 『まつろわぬ神』のあらすじはこうだった。

 好き嫌いをしたり、道具への感謝を忘れてぞんざいに扱ったり、自然現象へすら我が物顔にしてみたり。

 そんな人間に愛想を尽かした一部の神様たちは、人間社会へ反旗を翻し、思い通りにはなるまいと暴れまわった。注連縄は落ち、ネクタイは好き勝手に絞まり、火はどこへでも延びていった。

 そんな神様に主人公たち人間は「勝手なことをするな」と怒り、神様たちも「身勝手なのはお前たちの方だ」と言い争う。

 それぞれがそれぞれの都合を押し付け合い、思いやりを忘れたその瞬間、古い神が、後光とスモークと共に現れて言う。


  風の神:「このまま、世界に暴風を吹き荒らせて見せよう!」


その時、後光と共にひとりの神が現れる。杖を突き、老人らしい足取りで、海老  のように腰は曲がっている。


  神一同:「お、お前はっ!」


  火の神:「お前は、この者たちに取り壊される『旧校舎の神』ではないか!」


  旧校舎の神:「さよう。そしてお前たち、落ち着くのだ。人間は確かにやりすぎている。だが、ここにいる者たちのように、反省し、将来我々が無くならないように計らってくれるものもいる。全てが全て、人間のせいとしてはいけない」


  箸の神:「しかしっ! あなたは現にこの者たちに取り壊されるではないか!」


  旧校舎の神:「それも仕方がないことだ。変化しないものなどない。それは人間の心であってもだ。しかし、儂を支えてきた木材が再生紙となり、跡地がテニスコートになるように、万物は流転し、次の魂を芽吹かせるのだ。そして新たな命で本分を全うする」


  ネクタイの神:「そう、だな。──私が間違っていた。私の本分は首元に緩く絞まり、服装に引きしまった印象を与えることだ。窒息するほど首を絞めることではない」


  医療の神:「そうだ。僕も今すぐ本分を果たし、昏睡状態にある患者なんかを目覚めさせるため、全力を尽くそう」


旧校舎の神と共に、三々五々に散っていく神々たち。


  ナレーション:「こうして神々はおさまり、世界は平穏に戻ったのであった」


 








  












 学園祭の終幕から三か月。

 優奈が意識を取り戻してからは二か月。


 世界は何事もなかったかのように元通りになった。箸もネクタイも注連縄も元の機能のまま。火は自ら暴走することなく、日本上空を吹き荒れていた謎の暴風も観測されていない。


「おとうさん、ようやく帰国できるんでしょう?」


 日本行きのフライトがようやく再開された。

 帰れる段になって、父はすぐさま日本行きのフライトチケットを手に入れていた。


「わたしたちを捨てて、もう向こうに永住する気かと思っていた」


 そう言うと、見たこともないほど険しい表情で父は言ったものだ。


「そんなことするわけない。子どもを見捨てて平気な親なんているもんか」


 父の男気にわたしは感心し、そしてこの場に現れない母のことを恥じた。


「まあ、いいじゃん。あたしが交通事故に遭ったことも、お姉、言ってないんでしょ? ゆっくり話していけばいいよ。あたしたちがどうなっていて、どうやって元に戻ったのか」


 スカートが揺れる。優奈はスキップしてわたしに脚本を突き出した。『まつろわぬ神』の物語は、もう二度と再演されることは無い。


「本当はこの脚本、伊藤先生が書いたやつだったんだけど、うまくいって結果オーライだったね」

「はっ……?」


 優奈の発言にわたしは硬直し、次いでこみあげてくる悲鳴を必死に堪えた。

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