序 嵐の円環(サージ・ウォール)

 息子は行く先々で女たちの膝に乗せられた。彼は母の眼の色を受け継いだ。成長するにつれて髪も母に似た淡い金色になったが、癖の強い巻き毛は母以外からもらったのだろう。


 父と息子はアナザーアメリカを囲むサージ・ウォールの禍々しくも雄大な姿を眺める辺境にも行った。ヒューゴは子守唄代わりに、サージ・ウォールの不思議を語った。

「いいかい。アナザーアメリカの創生伝説に照らし合わせるとサージ・ウォールが現れてから、消えることもどこかで途切れることもなかった。高山や海上などの地形に左右されず、常に強烈な暴風現象を保ち続けている。

 サージ・ウォールはほぼ環状…そう…大きな円だよ。東の端は北メイス領国、北は遊牧民の湖沼地帯、西はロシェック大山嶺を跨ぎ、南はオスティア領国のはるか海の上まで、ぐるりと我々を取り囲んでいる。

 私はサージ・ウォールそのものが独立した一個のエネルギー活動体と考える。そのエネルギーは未知のもので、アナザーアメリカに空気のように見えない形で存在している。人の目にはとらえられないほど小さなエネルギー物質だ」


 こうしてカレナードの記憶に黒灰色の嵐の塊が焼きつき始めた。

「父さん、あれはこわいけど、きれい」

 彼は多くの子供が怖気づく光景を、畏敬と感動を持って飽きることなく眺めることができた。


 カレナードの最初の記憶は、黄色い夕暮れに山のように横たわるサージ・ウォールと夜営テントで父が焼いたジャガイモとベーコンの鍋だった。それから遠浅の砂浜に打ち寄せる波、そのはるか彼方の海上のサージ・ウォール。麦畑の向こうの険しい山々を横断しているサージ・ウォール。

 閉ざされたアナザーアメリカの大地だが、人々が暮らすにはいまだ十分すぎる広さがあるのに、あえて嵐の壁を越える必要があるのかと厳しく問うかのように、サージ・ウォールは巨大な円を描いてアナザーアメリカと外界を遮断していた。

 2人の旅はカレナードが6歳になる直前、突然終わりを告げた。



 創世暦2490年3月5日、払暁。

 マリラ・ヴォーは女王専用飛行艇を駆り、ガーランドを出奔した。

「女官長と艦長ら側近が何を言おうがかまわぬ。

 今の私は一人にならねば心が鎮まらぬ。生き脱ぎの儀式の前には絶対の孤独が必要だ…」

 飛行艇はオルシニバレ領国都に近い山中の湖に向かった。白い霧が湧き、幽玄の世界があった。

「安らかだ、生き脱ぎもこのように静かで安らかなものだと救いもあるのに」

それがないものねだりだと、彼女はよく分かっていた。

 数十年に一度、女王の役目に倦み疲れ、彼女は自ら飛行艇を操って人知れぬ場所に降り立ってきた。孤独も闇も地表を這う狼も恐ろしくなかった。

 恐ろしいのは溜まっていく女王の澱。放っておくと正気が失われそうになる。

だからこうして捨てに来た。これで何十回目になるだろう。


 マリラはすでに回数など忘れていた。

「浮き船はアナザーアメリカの守り主であり、大いなる畏敬の対象。

 浮き船が各領国間の争議を取り持ち調停するゆえに、アナザーアメリカは大量の血を流さずにきた。それは創生の時に浮き船の船主となった私の強い望み。そのために不死の女王を務めてきたのだ……」

 毎年の春分、マリラはウーヴァに殺され、ウーヴァの霊力でガーランドと深く結び付けられた真新しい体に再構成されて蘇った。苦痛のため、かつての黒髪は淡いブロンドに、緑の目は灰色に変わり果てた。

「ああ、人でないウーヴァは人の死の苦しみを知らないし、知ろうともしない。

 諸々の大地の精霊たちよ、耐え難い苦しみを受け入れる力を我に宿らせ給え」


 祈る彼女の耳に微かな声が届いた。

「子供の声が。こんな所に」

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