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一か月もしないうちに、青子は勤めていた日本語学校の姉妹校へ転属になった。
嬉しいのは以前より千葉よりな職場で秋葉原に近いことだが、仕事後に行くことはそうそうなさそうだ。
そして青子は三日も経たないうちに転属を後悔した。
「坪倉さん」
「はい」
朝からいかにも自分は不機嫌なのだという顔で教員室に入ってきた教員代表の、
「この前、私が渡した資料は、ちゃんと目を通されたわけですか? 授業が終わったからって、情報共有もせずとっとと帰ってたらその日何があったかこっちはわかんないでしょ? 言ってる意味わかる?言ってる意味わかる?」
青子の耳には、俺の機嫌に合わせて残業しろって意味に聞こえたけれど、勿論それは言わず、ただ「すいません」とだけ言った。
こういう時は空気を読んで取り合えず笑顔で返すしかない。
だから、空気を読む人より、空気を制している人がいつも上だ。
多分、もっと大袈裟に、分かりやすく大草をよいしょすれば、猿が木に上るより簡単に上機嫌になるのだろうけど、青子はそれをしたくなかった。
一度でもこの横柄そのもののような存在に、心を殺して、よいしょするということをすれば、二十四時間無料で無理してでも半永久的にその無償サービスをし続けないといけなくなると知っていたからだ。
こういうタイプはこちらが疲れていようと、悩んでいようとお構いなしで、機嫌を取らないと、仕事を盾にして『どうして僕に構ってくれないんだよ』と、喚き散らすから。
青子は人をよいしょするのは嫌いじゃない。
寧ろ、それで相手が喜んでくれたり、元気を出してくれるなら積極的にしたいと思う。
しかし、この大草のように、鼻から人によいしょしてもらう気で、不機嫌をまき散らしている、しかもそういう素直になれない自分を、どことなく可愛いと思ってる節がある人間を、わざわざ面倒見る気にはなれなかった。
人に優しくしてもらえることを当たり前としていて、人の都合を考えない、生けるこなきじじいみたいな存在。
妖怪じゃない分やっかいだ。
こういうタイプにおぶさられ、取り付かれ続けた青子のコンビニ時代。
(またあの頃に逆戻りじゃないか)
青子は壁に向かって落胆した。
青子以外の職場の人たちは、どれだけ大草が大きな声で喋ろうと、絡まれないように、自分の作業にしているように振る舞う。絶対に机から顔を上げず、視線を合わせるものかという強い意思を感じた。
それは野生の猿と目を合わせないようにするのと同じ仕草だ。
結局この場は、一番新しい青子が延々と絡み続けられる。
大草は話すと同時にどんどん青子との距離を縮めてきて、指先で肩を突いてきた。
(誰か、誰か助けて)
空気があるのに呼吸困難になりそうだと青子は思った。
「どうかしましたか?」
「あ、ああおかえりなさいませ」
大草先生の話しを中断させたのは、この学校の校長の山本先生だった。
いかにも優しそうなオーラを放ち、微笑んでいる。
太めの鼻筋と、白い清んだ肌が、育ちの良さを感じさせた。
「あ今、大草先生にご指導を受けていたところです」
青子は笑顔のまま眉間にシワを作り、上半身を傾けて、精一杯自分の苦痛が伝わるような愛想笑いをして見せた。
「それは、それは、仲がよろしいようで良いことですね」
青子は思わず前のめりになってずっこけそうになった。
山本校長は、大草先生に笑顔で二三質問をすると、また用事があるからと、学校を出て行った。
(絶対この学校にいたくないんじゃん。アナタは表面上取り繕ってれば被害を受けないから良いよね)
優しいけれど頼りない山本校長の背中に、青子は心の中で毒づいた。
山本校長がいなくなると、大草先生が青子に向き直り上から指を指し怒鳴った。
「なにが「お帰りなさいませ」だ! お前はメイドか! それでも教員なのか!」
「申し訳ありません!」
青子は余りに突然に怒鳴られたので反射的に頭を下げてしまった。
そして次にはふつふつと腹のうちに怒りが湧いてきて、胸はどんより重くなった。
(だって「お帰りなさい」じゃタメ口になるじゃない。各段悪いことをしたわけでも、間違ったことをしたわけでもないのに、どうして私が怒鳴られなきゃいけないの。私はどんな時にも誠実でありたいだけなのに、こんな風に扱われる理由ってなんなわけ?)
青子は言いたいことは沢山あったが、怖くて言えなかったし、言える環境でないことは、何度も繰り返すように、身に染みて分かっていた。
(結局、アルバイトだろうと、正社員だろうと変わらないんだ。この世は間違てるのにえばってるやつが罰せられなくて、でも上は自分が手を汚したくないから見て見ぬふりをしてる)
ここの職場では、大草のことについては直接話し合わないようにするような、暗黙の了解があるようで、時々本人がいない間に、2,3人の古参が、周りに聞こえるように噂話をする程度だった。
なので、青子も空気を読んで、なにか意義を唱えるということは出来なかっし、やはり大草が生理的に恐ろしかった。
背が高く、大柄で常に口端が下がっていて、上三白眼で、常に人のあら捜しをし、いつでも文句が言えるように、半開きの口から歯を剥き出した表情でよくいる。
そこも、青子が働いていたコンビニの店長と同じだなと思った。
だからそうやって、人に構ってもらおうとして人に構う分、本人は余り仕事を手がけられていない。のに関わらず周りも、山本校長さえもそれについては、余り文句を言えないようだった。
心に引っ掛かりような、腑に落ちない点が多すぎて、次第に青子は無口になった。
青子の心の引っ掛かりになる点は、些細なことだが他にもあった。
青子の今いるデスクや、ロッカールームに、持ち主が持ち帰ることのない、使用済みの文房具いくつもあることだ。
最初未使用かと思われたB5のリングノートには、仕事についての決まり事や、手順なのが、綺麗な丸文字で分かりやすく詳細に記述してあった。
きっともとのメモから時間をかけてノートに写し、自分なりにまとめたんだろう。
そういう大小ある道具たちは、きっと仕事への意欲から選ばれて買われ、だから持ち主の好みの色や柄を持っているに違いなかった。または誰かから贈られたものもあるかも知れない。
そういった、使用者の気を纏う道具たちが、いくつも置き去りにされていて、不審に思わない方がおかしいと青子は思った。
道具を取りに来ない持ち主たちが、まじめに取り組んだのにも関わらず、それを続けられなかった、中途半端で諦めるしかなかった悔しさやもの悲しさを、誰も使わない道具たちがいる小さく狭い空間が、無言で語っているようだった。
この職場では、誰も言葉にしないけれど、確かにあるもやもやした淀みを抱えたまま、その空気を読みながら、誰もが発言を押さえつけられている。
教員室の天井には、横長の長丸菅蛍光が24本もあるのに、なんだかそこはいつも薄暗かった。
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