第1章 訳の解らぬ世界
1話 天国はなかった
「――。生き……ている……のか……。ここは天国では……ないのか……」
自分は腐った倒木とその古い切り株の間に横たわっていた。
事故を起こし、死にかけたたはずの自分の体は、特に何の傷もなく、衣服だけはボロボロであった。男は腰をかばいながら切り株に手を掛けると、ゆっくりと立ち上がった。あたりを見回すと、どこまでも続く雑木林と、奥の方には日差しが差し込む少し開けた場所があった。
視線を開けた場所の方にやると、木にもたれかかるように先ほどまで乗っていたボロボロの愛車が横たわっていた。
――
そう思い、草をかき分けながら車へと駆け寄った。
助手席のドアはすでになく、中を窺うと圧迫された運転席には大量の血痕と千切れたチェーンのみがが残されていた。
残されたそのチェーンをを拾い上げ強く握りしめると、慌てて指輪を探した。
運転席の後ろには小さなボロボロの鞄があったが、手も届かず、車体に挟まっていたため取ることができなかった。
ダッシュボードも開けた。ダッシュボードには
外に落ちているのではないかと、草の根分けて探したが、指輪はなかった。
途方に暮れ、しばし車にもたれかかって休んでいると、なにやら焦げるような臭いと、川もないのにちょろちょろと液体の流れ出る音がした。
まずいと思い、とっさに車体に手をかけやっとの思いで立ち上がると、足を引きずるようにその焦げる匂いから身を遠ざけた。
そして次の瞬間、車は突然発火し、燃えたのである。思い出の鞄と共に――
悔やむように大地に両手を突き泣いた。視界はその大きな雨粒で一杯となり次々へと地面に滴り落ちる。そうして泣いているとその視線に先に、ひとつのきらりと光る金属質のものが見えた。バックミラーに提げておいた指輪は横転を繰り返す車内で偶然にも左手の薬指へとはまっていたのである。指から外してチェーンを付けようと思ったが、指輪は指に食い込むようまっており、外れる事はなかった……。まるで縋り付いて、駄々をこねている「彼女」を見ているようであった。そうして左手を空へと向け指輪をしばらく眺めていると、再び涙が出てきた……。
「はやく
そんな折、涙も乾き暫くただただぼおっと佇んでいるとお腹がぐうと鳴った。先ほどダッシュボードから取り出した飴の包装を徐に剥くと、それを口に入れた。優しい甘みは口の中に広がっていった。そしてまたただただぼおっと、時が過ぎていくのを待っていた。自分の置かれている状況も知らずに――
あたたかな日差しの当たる木にもたれかかり、少し目をつむるとそのまま意識が薄れていく――。
――そして数刻が経った。
気温が下がったせいなのか暗くなったのか、慌てて目を覚ました。
雑木林には一足先に夜の帳が下りていた。
ふと、空を見上げると月は二つ出ていた。幾度も目をこすった、分厚い眼鏡を衣服の裾で拭いてみた、しかしそれは確かに二つあり、鏡を真ん中に置いたように合い向いに三日月が形作られていた。見間違いではなかった。
いよいよ頭までおかしくなったか……。そうこころの中ではそう呟いていた。
家に帰る事もできずそうこうしているうちに、僅かな月明かりが厚い雲に捕らわれ辺りが急に暗くなっていくのがわかった。視界は闇に遮られ、右も左も分からなくなると、耳だけで状況を探ろうした。
街では決して聞くことのできない闇夜の森は、風と木々の揺れガサガサと音が聞こえた。それは少し神秘的でもあり恐怖でもあった。再び注意深く耳を澄ますと、草木のほかに動物と思われるフクロウや獣の声が聞こえる。
――グルルル……パキッ……パキッ……
獣の――そう何者かが、こちらに近づいてい枝の折れる音が近づいてきているのがわかった。そう思うと急に不安がこみあげてきた。
慌ててその場から離れるとその音もついてきた――唸り声と共に。
男は腰の曲がった体で、不器用にも闇の中を走った。
パキパキと近くづく音と唸り声。懸命に走りながら先ほど車で拾った発煙筒を擦る。
――シュッ!
火花と共に、発煙筒が燃えた。辺りは少しピンク色に染まると、幾つもの獣の姿を照らし出した。
煙を出しながら発光する棒を獣に対して振ると、彼らはすこし下がりひるんだ様子であった。こっちに来るなといわんばかりに後ずさりをしながら何度も何度も振った。そしてその度に火の粉が舞い散る。
――アチッ
その拍子、おもわず発煙筒を手放してしまった。
発煙筒を拾おうとするが、その明かりを避けるよう獣が回り込んできてしまい。拾うことは叶わなかった。そうして後ろに下がり走り出した。
視線の先には開けた場所が見えた。すかさずそちらの方へと走り出すと、突然身が軽くなっり足が空転する。
宙を舞う身体、視界はぐるぐる回った。山肌を転げ落ちるかのように幾度も岩に当たり叩き付けられる身体はしばし転がり続けると、木に当たって止まることができた。
近くには小さな川が流れているのかザーっという音が聞こえた。
獣から逃げまいと木に掴まり、ゆっくりと身体を起こした。
いや――起こす事ができのだ。本来であれば良くて骨折、悪ければ脳を打ちそのまま亡くなっているくらいの斜面である。
男はなりふり構わず小川をザブザブと進むと、苔を踏み転倒した。顔や鼻に水が掛かる。水を吸った衣類は重く、思うように手足は動かせなかった。息継ぎもうまくできなく、足は川底には到底届かない。あまりの苦しさにバタバタと手足を動かすと、顔も身体もすっぽりと沈み、意識が遠のいていった。
老人転生奇譚 にゃま @Macrocosmic_Nama
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