<第三幕> 開花
***
ほどなくして、ひとりの男性客が店の中を覗き込み出した。結局一人だけ冷水を飲んでいた風間が、すぐに気づいて声を掛ける。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
「あ、えっと、薔薇の花を…… 」
その男性は見た感じ、二十代後半といったところで、私と同い年か、少し年上のように思われた。優しそうな目元が、どこか春樹と似た雰囲気を感じる。
ベージュのコートに、グレーのマフラー。手袋は付けずに、寒そうに両手を擦りながら、店頭をきょろきょろと見回している。
やや無造作に伸びた髪が、時折通り過ぎる風に揺れていた。
「薔薇でしたら、店内の方に」
風間が男性を案内する。店内はある程度風が遮られるので、いくらか寒さは落ち着いている。まあ、そうは言っても空気は冷たいままだから、決して暖かいというわけではないが。
男性は薔薇が置かれた一角まで来ると、驚いたように足を止めた。
「薔薇ってこんなにたくさん種類があるんですか」
「ええ、特にうちは、多くの種類の薔薇を置いている方かと思います」
薔薇には赤や白、ピンクだけでなく、黄やオレンジ、紫や黒など多くのレパートリーがある。天然で存在するものもあれば、人工的に作り出されたものもある。それぞれ固有の香りを持ち、花言葉も色や本数によって異なるため、花束などの贈り物に用いられることが多い。
お客さんの多様なニーズに対応できるようにという想いから、この店では薔薇の仕入れにはかなりこだわっているのだ。
「赤とピンクくらいしか、見たことありませんでした」
そう言って男性は恥ずかしそうに笑った。その笑顔は楽しそうな、それでいてどこか物寂しげな、不思議な表情だった。
「カラフルなのも気になりますが……ここは王道で赤色にします」
そういうと男性は薔薇を二本ほど引き抜いて、真っ直ぐレジまで持ってきた。風間がそのままレジに入って会計をする。
やることがなくなった私は、気まぐれでその男性にひとつ質問をした。
「失礼ですがお客様、この度はどうして薔薇をお買い求めに?」
「ちょっ……ちょっと芽衣さん、お客様にそんな野暮な質問しないでください。カレンダー見ないんですか」
春樹が慌てて、小声で釘を刺した。私は戸惑って首を傾げる。
カレンダー? 何か特別なことでもあっただろうか。バックヤードに掛けられたカレンダーに目をやる。
今日の日付は——二月十三日だ。
「十三日って何かあったっけ?」
まったく見当も付かず、春樹に訊き返す。彼は呆れたように溜息を吐いた。
「違いますよ……今日じゃなくて明日です」
明日。ということは、二月十四日。
そこまで言われて、ようやく答えに辿り着いた。
「————ああ、バレンタインか!」
思わず、声が大きくなる。春樹の
いつの間にかクイズにされていることに、男性が再び恥ずかしそうに笑った。
「なるほどなぁ、確かに言われてみればそうだ」
風間がレジからお釣りを出しながら感心した様子で呟いた。
「え、まさか気付いてたの僕だけですか?」
……まあ風間さんは、たしかにそういうのちょっと疎そうですけど。
——口には出さなかったが、内心思ったであろうその言葉は、思い切り顔に出ていた。しかし風間はそれに気付く様子もなく、頷きながらお釣りを男性に手渡す。
しかし、私のなかでひとつ疑問が浮かんでいた。
「でも、バレンタインなのに男性から贈るんですか? しかも、チョコレートとかじゃなくて、薔薇の花束を」
だからなんでそんなことまで訊いちゃうんですか、と春樹が無言で詰る。しかし、またもダメ押しをするように、たしかに、と風間が呟く。春樹が額に手を当てて、一段と深い溜息を漏らした。
男性は、別にいいんですよと笑って話し始めた。
「私の考えるバレンタインは、イタリアとかアメリカとか、そういう海外でのバレンタインなんです。チョコレートを女性から男性に渡す文化って、日本とか韓国くらいなんですよ」
言われてみれば、そんな話をテレビか何かで聞いたことがある気がする。チョコレートを売り出すための戦略だとかなんとか。頭の隅っこに埋もれていた情報が掘り返される。
男性はさらに説明を続けた。
「元はと言えば、バレンタインデーはローマ皇帝のクラウディウスという人物が結婚を禁じたことに、ヴァレンチノ司祭という人が愛の尊さを説いて抵抗したことで処刑された日なんです」
「バレンタインって処刑日だったんですか!?」
驚いて大きな声を上げてしまった。てっきり、誰かの誕生日か何かだと思っていた。
日本だとそういうイメージですよねと、男性は頷いて話を続けた。
「アメリカなんかでは、男性から女性に花束やカード——特に薔薇の花束を贈るのが習慣なんです。それも『義理』っていう概念はなくて、贈るのは本命だけ」
風間もつい、花束をつくる手を止め、男性の話に聞き入っていた。
「私は、これがとても格好良く思えるんです。こういう花束って、何だか自分の想いをそのまま伝えてくれる気がするから」
心のどこかで、ふと同じような響きを感じた。
————私も花に想いを託せるように。
かつてそう願ったときの感覚が
「言葉で言えばいいじゃないかって言われたら、その通りなんですけど。でも言葉だけだと、どうも伝わっていない気がしてしまって」
そう言って男性はまた、照れくさそうにして頭を掻いた。
「だから私は、想いを込めたこの花束を持って、最愛の妻に会いにいこうと思うんです」
最愛の妻——初対面の私たちの前で、そこまで言い切ってしまうくらいに、彼にとって大切な人なのだろう。
男性は私を見ると、口元に小さく微笑んだ。
「……こんな臆病な私に、何年もずっとそばで寄り添ってくれた人です」
思い出を噛み締めるように、目を閉じて幸せそうに呟いた。
「素敵な話ですね」
風間が花束を仕上げながら、しんみりと呟いた。
「永遠、というわけにはいかなくても、それでも一緒にいられる間は、想いを伝えていたいと思ったんです。最後の一瞬でも想いが届くのならば、その人生で彼女を愛した意味があったと言えるんじゃないかなって。——綺麗事ではありますが」
そう言うと少し俯いて、また物寂しそうな顔をした。
すると風間が、出来上がった花束を差し出しながら笑いかける。
「いいえ、ちっとも。本当に素敵だと思います」
その言葉に、男性の笑顔から感じていた切ない色が消えた。彼の顔に浮かぶのは、心の迷いが取れたような、清々しい笑顔であった。
風間から花束を受け取ると、男性は深々と頭を下げた。
「あっ、でもバレンタインデーは明日ですよね。さすがに明日までに枯れるなんてことはないと思いますが、念のため防腐加工しておきますか?」
私は、はっとして男性に尋ねる。しかし、男性は軽やかな笑顔を浮かべて首を振った。
「いえ、すぐに渡すので大丈夫ですよ。お構いなく」
なんだか同じような台詞をさっきも聞いた気がする。春樹の方に目をやると、彼は何も言わず男性の目をじっと見つめていた。
「今日は、どうもありがとうございました」
小さな花束を大事そうに抱えて、男性は店を後にした。
<続>
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