<第二幕> 蕾
客の入りはと言えば、まあ良い方なのだと思う。普通がどのくらいか定かではないが、個人で営んでいる店で、生活と経営に困らないほどには売り上げが出せているという点で、悪くはないと言っていいはずだ。
とは言っても、当然お客さんが入らない時間もある。
誰か来たときに無人というわけにはいかないので、最低一人は店内にいるようにしているが、正直言ってこの時間は暇というほかない。店内にいるその一人は、花を愛でたり、花の香りのなかで読書を――これは本当はよくないのだろうが、そうやって自由に時間を過ごすのがうちのお決まりだ。
店番は交代制で、この日は春樹がその役割だった。
風間と私は、さらに奥のバックヤードのような小スペースで休憩をしていた。
「おい春樹、お前もこっちで休んだらどうだ。こんな寒い中、ずっとそっちにいたら風邪引くぞ」
お茶でも淹れようか。風間が立ち上がると、
「ああいえそんな、大丈夫ですよ、お構いなく。……僕までそっちに行ったら、お客さん来たとき困っちゃいますよ」
大袈裟なほど慌てて断る春樹が少しおかしくて、私は小さく苦笑いをした。
それなら代わりに俺が店内に、と風間は提案したが、案の定それも春樹の全力の遠慮――もはや拒絶に近い――によって、即刻却下されてしまった。
風間が不服そうに再び腰を下ろすと、また落ち着いた空気が流れる。
「————あ、そういえば、春樹君は大学出たあとどうするの? すぐ就活?」
さっきの会話で聞きそびれていたのを思い出し、私は春樹に問いかけた。彼はサボテンに霧吹きをかける手を止めて、こちらに向き直った。
「いえ、大学院の方に。……もう少し研究したいことがあるので」
少し照れたように笑ってそう答える。
大学院か——。私は考えようともしなかった選択だ。
経済的な理由というよりも、単に早く上京してお店を持ちたかったからだ。「もう少し研究したいことがある」だなんて、私には到底考えつくことのできない世界だった。
「ちなみに、風間さんは前の会社にはどんな経緯で?」
一年以上一緒に仕事をしてきたが、考えてみると風間の生い立ちや学歴などもまったく訊いてこなかった。本当に、自分がどこまでも適当な人間だと改めて気付き、少しだけへこむ。
「俺か? 俺は私立大学の経営学部を出て、そのまま大学院行ってから就職。あの会社での五年が、最初で最後の『会社員生活』ってやつだったな」
やっぱり風間さんも大学院行ってたんだ。なんだか、自分だけが焦って生きてきたように思えて、急に恥ずかしくなる。
学びたいことを突き詰めたいという気持ちを持っていて、それを突き通して今ここにいる人と、これからその大志を叶えようとしている人。それに比べて、私はなんて考えが浅はかなのだろう。
しゅんとしていると、春樹が控えめに口を開いた。
「……風間さんって、前は何の会社に勤めていらっしゃったんですか?」
「ああそうか、春樹はまだ知らないんだったな。前は、個人の開業を支援する会社にいたんだよ。開業なんて、銀行から融資受けただけですぐ出来ることじゃないだろ? だから、開業までの手続きや店舗の確保、経営のサポートなんかをお手伝いするってわけよ」
得意げに言葉を並べる風間に、春樹はふむふむと頷きながら聞いている。風間は大袈裟にもったいぶって続けた。
「それでよ、その会社で俺が最後に担当したお客様ってのが——ほら、ここにいらっしゃる店長さん」
「え、そうだったんですか⁉ そんなドラマみたいなことが……」
まさかといった様子で春樹は目を丸くした。
風間は一呼吸おいて、当時を懐かしむように再び語り出した。
「いやあ、びっくりしたんだよ。ほとんど無計画で上京してきて、『花屋がやりたいんです』なんて相談してきた人は五年間で初めてだったからさ。しかも半泣きで」
「半泣きで……」
風間さんお願いですから、それ以上言わないでください……。
私が一層縮んでいると、風間は笑いながら続けた。
「あまりにノープランだったから、最初は俺にもどうしていいか分からなかったけどさ。どうしても花屋をやるんだっていう決意、これがとんでもなく固かったのよ。うまくいく自信があるっていうより、失敗したとしてもいいからやりたい——そんな感じだったかな」
風間はそこまで言うと立ち上がり、近くの棚に置かれたポットから急須にお湯を注いだ。引き出しから取り出したティーバッグでお茶を淹れながら話を続ける。
「今となっては、この店で楽しく仕事させてもらってる。正直言って、前の職場より何倍も楽しい。俺はあのとき、店長の担当になれて良かったと思ってるよ」
淹れたお茶を紙コップに注ぐと、急須を置き、春樹の方へと歩み寄った。
「——— まあつまり、人生なんてどんな生き方したっていいってことだよ。店長は大学院行ったりしてるわけじゃないけど、赤の他人が憧れて、仕事辞めてまでついていこうと思えるような、そんな生き方をしてるのさ。かく言う俺も、自分のやりたいことに素直に従って生きてるだけだしな」
紙コップを春樹に差し出すと、彼の肩をぽんと叩いて言った。
「だから春樹も、自分本位で自由に生きていけ」
一瞬、風向きが変わるのを感じた。かすかに温かみを帯びた風が店内に流れ込んで、私の頬を優しく撫でる。心のつっかえも、一緒に拭い去ってくれたような気がした。
春樹は風間を見つめたまま、差し出された紙コップを両手で受け取った。
そっと口をつける。
数秒の沈黙のあと、春樹は固まったまま間の抜けた表情で呟いた。
「————ぬるい……というか、常温……?」
風間はどうかしたのかと言いたげに、春樹と紙コップを交互に見ている。
二人の頭の上にクエスチョンマークが浮かんでいるのを見て我に返ると、すぐに状況を理解して、こっそり呟いた。
「……風間さん、猫舌なのよ。お茶淹れるといつもぬるくなっちゃうの」
「馬鹿言え、これが適温ってもんだろ」
聞き逃さなかった風間がすかさず訂正する。
私も春樹から貰ってお茶に口をつける。
――——常温、というより人肌。赤ちゃんにあげるミルクみたいな温度。
「いや、風間さん……ごめんなさい、これはさすがにぬるすぎです」
この温度でお茶って出るんですね。春樹も肩を震わせて笑いをこらえている。
なんだよ二人して、口のなか火傷するより何倍もいいじゃないか。
ぶつぶつと不満を呟く風間に、春樹と二人で目を合わせると、耐えかねたように吹き出した。
<続>
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