スノー・ドロップ
亥之子餅。
<第一幕> 新芽
花は人生そのものだ——誰の言葉だったか、言い得て妙である。
種から芽が出て、少しずつ少しずつ大きくなって、やがて
古来多くの人々が花を楽しみ、愛でながら、花に様々な想いを乗せてきた。感謝や
ちょうど、「花言葉」というものがあるように。
私、
父親の仕事柄、幼い頃から引っ越しを度々経験してきた。それゆえに、出逢いや別れに花が付き物だということは、頭で理解するより先に当然のものとして分かっていた。
「お別れ会」なるものがあれば、必ず花束がセットでついてくる。人生で何回その「花束」をもらったのかは定かではないが、まだお別れの意味もよく知らないような、小さい頃から手にしてきたと思う。
小学生より以前なんて、正直「なんかお花もらえた」くらいの感覚だった。もちろん少し経てば、お別れの挨拶のようなものだということはすぐに分かったが、それでも形式的なものとしてしか、考えたことはなかった。だがある時、今度は私が花を贈る立場になったことをきっかけに、もらう側ではなく贈る側の気持ちを想像するようになった。
花瓶に移された花々は、大抵の場合、数日か数週間のうちに枯れてしまう。永遠には残らない、儚い花に託された想いだから、それが散っていく前に受け止める。
そんなことが出来るのは、いったい人生のうち何回あるだろうか。
花に想いを込めた本人が、その想いが伝わることを願っているかは分からない。だが私のために込めてくれた想いを、知ることのないままに枯らしてしまうことは、私は絶対に嫌だったのだ。
そして、私も花に想いを託せるように————。
その想いから花について勉強し始めたのは、高校に入ってからのことだった。
その後、地方の大学の園芸学科を卒業したのち、上京して開いたのがこの花屋だ。
淡いライトグリーンの看板には、「Snow Drop」の文字。店名は「感謝」という花言葉を持つ花の名前からとったものだ。この花は春一番に咲くとされていて、冷えた街の空気にどこよりも早く春を届けたいという想いも込められている。
二月、まさに「Snow Drop」の季節。私は、まだ朝日のオレンジ色が眩しい早朝、
「……あのー、芽衣さん、今ちょっと手空いてますか?」
店の奥から私を呼んだのは、先月からこの店でバイトをしている大学生の
そこまで年も離れていないため、私のことは「芽衣さん」と親しみを込めて呼んでもらっている。私自身も、変に気遣いを含まないその呼ばれ方が気に入っていた。
バイト経験はそんなにないと言っていたが、仕事を進める様子はどこか大人な感じがする。最初の面接では「朝が弱い方です」と少し不安げに言っていたのに、毎日遅刻もなく出勤してくるのは真面目さが
……とはいえ、彼のその声色は、眠さと怠さを隠しきれてはいなかった。
「うーんごめん、こっちは忙しいかな。どうかしたの?」
口元から白い息が漏れる。今日は曇っているせいか、いつもより一段と空気が冷たい。
「いや、レジの小銭がちょっと足りないかなって気がしたので」
「ああそう? それじゃあ、いくらか補充しといてくれる?」
私はお世辞にも几帳面な人間ではない。普段も、レジの小銭なんて足りなくなったときに足せばいい、程度にしか思っていなかった。だから、そういう細かいところに気が付いて指摘してくれる春樹の存在は、このお店を運営するのには非常にありがたかった。一応年下ではあるはずなのだが、真面目さの度合いでいったら彼の方が五つは年上である。ちょっと気弱なところにもどかしくなるときもあるが、そこもまた、彼の良いところなのだろう。
「そうしようと思ったんですけど、予備の小銭がどこにあるか分からなくて」
春樹は戸惑った表情で、きょろきょろと店内を見渡してみせた。
「ああそっか。えっとね、今立ってる背中側の引き出しの……どこかに入ってたはず」
「どこかって……こういうのって、普通レジの下とかにまとめておくものじゃないんですか……?」
「ごめんごめん、見つけたら適当に移しといてよ」
溜息を吐きながら、中腰で会計スペースの棚を漁る春樹を尻目に、私は苦笑いで答える。
レジ回りって、バイトがこんなに漁っていいものなんですかね。そう彼がブツブツと呟いていると、
「お釣りなら俺がやっておくよ。お金の管理に関しては、俺の方が慣れてるからな」
言いながら慣れた手つきで引き出しを開けたのは、店員の一人である
風間はこの店を創業したときからの仲間で、収支管理や諸々の申告など、経営に
もともとは個人の起業をサポートする会社に勤めていて、半泣きで相談に来た私の担当としてあれこれ教えてくれたのが始まりだった。彼自身も、いくらか花には興味があり、しかもちょうど何か新しいことに挑戦したいと思っていたらしく、私の花屋開業をサポートするうちに、一緒に働きたいと思うようになってしまったのだという。
そんなドラマみたいなことが現実にあるものなのかと、初めは戸惑いもしたが、今となっては毎日その存在の大きさに感謝するばかりである。
果たして彼に出逢わなかったら、この店は今現在どうなっていただろうか。ふと手を止めて考える。
……恐ろしい世界線が次々と想像できてしまって、慌ててぶんぶんと首を振った。
「……ああ、風間さん、ありがとうございます。じゃあよろしくお願いしますね」
「はいよー」
風間はこちらに背を向けたまま、
春樹も風間に対しては強く尊敬を抱いているようだが、彼の気弱で真面目な性格からして、その真意はどちらかというと「恐れ多い」に近いだろう。春樹は風間に深々とお礼を言うと、制服のエプロンの紐を結びなおしながら、私の方へと歩いてきた。
「というわけで、また僕の手が空いてしまったんですけど、何か手伝えることはありますか」
「え、でも店内の準備は?」
「今のお釣りの件で最後でした」
「あらら……相変わらず仕事が早いねえ」
この店は小さいとはいえども、店頭とレジがある店内に分かれており、四、五人の大人が入れるほどには広さがある。もちろんそこには様々な花が置かれていて、それらすべての準備を整えるのは楽な仕事ではない。ここにバイトとして働き始めてから、ひと月かそこらしか経っていない彼には、店内の半分弱の準備を割り振っていたのだが、それでも普通三十分以上はかかるだろう。
店内の壁掛け時計に目を
「やっぱり、私よりよっぽど店長向いてるよ、君は」
「いえいえ、僕なんて……ただの花好きな大学生ですから」
ということはつまり、「店長」である私は「ただの花好きな大学生」より仕事が遅いということだね。思わず心のなかでした自虐的な解釈を、また苦笑いでごまかす。
じゃあこの辺の苗を並べるの手伝ってくれるかな。
お願いすると彼は黙って頷いて、店頭に置かれたケースから、苗の入ったカップを取り出して綺麗に並べ始めた。
カップの表面の細かな土を、悴んで赤くなった指先で落とす彼に、私はふと気になって尋ねる。
「そう言えば、春樹君はどうしてうちに来てくれたんだっけ?」
最初の面接のときは、正直こちらも人手不足が深刻だったもので、あまり彼自身のことについては深掘りせずに、採用を決めてしまった節があった。経歴は何となく把握しているが、バイト先に花屋を選んだきっかけまでは、一度も聞くことなくここまで来てしまった。
彼は真面目だし、器用で手際もいい。働こうと思えばどこでだって働けるはずだ。うちは時給だって高いわけじゃないし、待遇ももっと良いところがざらにあるだろう。
黙々と仕事をしている彼の後ろ姿を見ていて、こんな個人経営の小さな花屋でバイトをする理由が、私には急に気になって思えた。
すると彼は、手を動かしながら意外そうに口を開いた。
「……あれ、まだ話してませんでしたっけ。僕は大学で、自然科学——まあざっくり言えば植物について専攻していたんです」
「うん、それは知ってるよ。履歴書にも書いてあったよね」
専攻していた、と過去形なのは、きっともう卒論も書きあがって修了間際だからなのだろう。
春樹は頷いて続ける。
「その分野を志した理由っていうのが、花にありまして。……小さい頃は田舎に住んでいたっていうのもあって、その辺に咲いている花を見たり、摘んで遊んだりするのが好きだったんです」
少し恥ずかしそうに言いながら、彼は頭を掻いた。
確かに可愛らしい遊びではあるが、私からしてみれば何となくイメージ通りというか、優しい彼の印象と合致して妙に納得してしまっていた。
「将来はもっと、皆が花を生活に取り込めるように、家庭栽培用の品種改良とか、そういうのをやってみたくて。……それでまあ、その準備段階って感じです」
さすがに、こんな朝早くからシフト入るとは思ってなかったですけど。少しおどけた口調でそう言うと、小さく身震いをした。
想像していたよりも素敵な理由だった、と私はひとり感動していた。そんな大事な経験の場としてこの店を選んでもらえたことが、素直に嬉しかったのだ。
ガサツで呆れられてばかりだった私でも、こうして巡り巡って他人の役に立てていたりするのだな。
一人で勝手にしみじみしていると、
「芽衣さん、この苗こんな感じでいいですか」
見るとついさっきまでケースに敷き詰められていた苗のカップは、売り場の台に整然と陳列されていた。綺麗に見えるよう、丁寧に並べる向きまで考えられている。
「え、早っ!」
「いや、早いって言っても、五分くらいは経っていますし……」
「いやいや、それでも早すぎるって!」
五ケースほどもあったし、私なら集中してやっても十分はかかるだろう。
————というかそれ以前に、何分かけたところで、私はこんなに綺麗に並べることが出来るのだろうか。しかも彼は、私に自分の身の上話をしながらこれをやっていたのだ。正直、この器用さはこの店にはもったいないくらいだ。
驚き五割、感動四割、
「おい店長さん、もうあと三分で開店時間だよ」
ありゃ、もうそんな時間か。我に返って見た時計は、七時五十七分を指している。
「了解、それじゃもう開けようか」
風間と春樹は頷くと、店内に戻って照明と音楽をセットし始めた。
<続>
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