20.推しのために覚悟を決める
「落ち着いた?」
「はい……すみませんでした」
私の嗚咽が止まると、イグニスはぽんぽんと私の頭を叩く。そして、ゆっくりと体を離した。
至近距離から視線が交わる。私の顔を見て、ふっとイグニスは吹き出した。
「ちょっと、何で笑ってるんですか!」
「いや、だってさ……普通、あんなに泣けるか? 今だってひどい顔してるよ?」
「イグニス様……! もう少しデリカシーというものを身に着けてください!」
言われなくても今の状態がひどいことはわかってる。涙と鼻水でぐちゃぐちゃだ。しかし、それを当人に指摘して笑うってあり得ない。私はぷいっとそっぽを向いた。そしたら――何だか急に肩から力が抜けて来て、ふふっと笑ってしまった。
「ルイーゼちゃんだって笑ってるじゃん」
「だって……! こんなに泣いたの、いつぶりだろう。あー。もうみっともないなあ……」
私はごしごしと腕で涙をぬぐった。すると、イグニスが「ほら」とハンカチを差し出してくる。意外と気が利く……。遠慮なくそれを使わせてもらうことにした。
それで頬をぬぐって、私は気持ちを落ち着かせる。清潔なハンカチからは爽やかな匂いがした。ふうっと息を吐いて、私は顔を上げた。
「イグニス様。教えてください。私に嫌がらせをしているのはフランツ様なんですよね」
「ルイーゼちゃんは知らなくていいことだよ」
イグニスは微妙な表情を浮かべて、目を逸らす。
「いいえ! 知っておきたいんです!」
「もしそれで、俺が『そうだよ』って答えたら、どうする気?」
「そうですね。私の故郷には『目には目を、歯には歯を』という言葉があります」
「ん……?」
「まあ、つまり意訳すると『よくもやってくれたな、このクソガキが! 同じ目に合わせてやらぁ!』ってことです」
「物騒!?」
イグニスは目を剥いて、慌てて告げる。
「ルイーゼちゃん、落ち着いて! フランツ様はあれでも一応、この国の第二王子様だから!」
「やっぱり犯人はフランツ様なんですね……」
「あ」
と、口元を覆うイグニス。
「わかりました。私、覚悟を決めます」
「決めるな、決めるな! フランツ様に仕返しなんてしたら、ルイーゼちゃんはもちろん、故郷のご家族までどうなるか……!」
「そんなことはしませんよ。今のは冗談ですから。私の覚悟というのは、嫌がらせに堪えるという覚悟です」
「え……」
思いっきり泣いたからか、私の中の鬱屈とした感情は全部吹き飛んでしまった。残ったのは1つの強い思いだけだ。
私……やっぱり嫌だよ……。
アイル様が死ぬなんて。
絶対に嫌だよ……。
もしかしたらその道はいばらの道かもしれない。
レオンにフランツ……。敵は多い。
私は完全に死の恐怖をぬぐえたわけじゃない。これ以上、嫌がらせなんてされたくない。今みたいに知らない男に襲われかけるなんて嫌だし、未だに得体の知れないレオンのことは怖くてたまらない。
けど。
でも、それでも。
私はどうしてもアイルの命を諦めきれない。
例え自分がどうなろうとも――
アイルを絶対に死なせたくはない!
だから……
「私、アイル様に会いたい。仕事場はこっちに移っちゃったけど、休みの日に私が個人的にアイル様を訪ねるのは勝手ですよね?」
「ルイーゼちゃん、西の塔への出入りは禁止されているんじゃ……」
「塔の中には入りません。中庭を散歩するだけです! もちろんフランツ様はまた私に嫌がらせをしてくるでしょうけど……でも、堪えます。アイル様に会えると思えば、そのくらい何でもないです」
「ルイーゼちゃん……」
イグニスが目を細めて、私のことをじっと見る。その翡翠色の目に、何か強い覚悟のような物が宿った。
「聞いてほしいことがあるんだ」
と、イグニスは静かに語り始める。
「昔、アイルちゃんは1匹の猫の世話をしていてね。すごくかわいがって、大事にしていたんだ。アイルちゃんには1人も友達がいなかったから。その猫だけが心の支えだったんだろうけどね。でも、それにフランツ様が目を留めて……。ある日、猫は死んだ。その猫がかじっていたおやつには毒物が含まれていた。アイル様はそれはもう悲しんで……猫の亡骸を抱きしめて、ずっと泣いていたんだ。その様子を城のバルコニーから見ていた人影があって」
真摯な口調に、私は息を飲んだ。脳裏に幼い頃のアイル様の姿が浮かぶ。
「フランツ様は笑っていた。ひどく楽しそうに笑っていた……当時、俺は訓練兵だったんだけど、その顔を見てぞっとした……。その時からだ。アイルちゃんは他人に冷たく当たるようになった。そうして自分に人を寄せ付けないようになったんだ」
そこでイグニスは痛ましげに目を伏せる。
「アイルちゃんが君のことを突き放すようにしたのも、その時の経験があったからだ。あの子はもう自分のせいで大切なものを失いたくないだけなんだ」
「アイル様……」
心臓がずきずきと痛むような気がして、私も視線を下に向けた。
ひどい……。
フランツは昔からアイルに嫌がらせばかりしていたんだ。それもアイルが悲しむ姿を見て、楽しんでいたなんて。あまりにもむごすぎる。
「フランツ様はアイルちゃんを傷つけるためなら、手段を選ばない。あの子の大切な物をすべて叩き壊して、それでアイルちゃんが悲しむところを見て、笑っているんだ。君はそれに抗う覚悟があるのか?」
「あります」
私は迷わなかった。
だって、もう覚悟を決めてしまったから。
「手段を選ばないのは私だって同じです。推しの笑顔を見るためなら、何だってする。それが私……ルイーゼ・キャディなんです」
イグニスの瞳をまっすぐに見返す。
すると、イグニスは少しだけ眼差しを柔らかいものに変えた。
「……ルイーゼちゃんの次の休みはいつ?」
「3日後です」
「わかった。その日のフランツ様の予定を聞いてこよう。授業中なら、フランツ様に気付かれずにアイルちゃんに会いに行くことができるかもしれない」
その言葉に私はハッとなる。じわじわと喜びがあふれて、私は頬をゆるめた。
「ありがとうございます! イグニス様っていい人なんですね」
「お礼を言われるようなことじゃない。本当は止めなきゃいけないはずなのに。それでも……俺も君と同じなのかもしれない。推しの泣いている顔よりも、笑顔を見たい……ってね」
その言葉に私は吹き出してしまった。
「イグニス様も『推し』って言葉を使うんですね! でも、わかります! アイル様の笑顔は最高ですからね!」
「え? あ、そっち?」
「え?」
きょとんとした顔でお互いに見つめ合う。
それからイグニスは取り繕うように笑った。
「あ、いや……何でもない。そうそう、俺の推し! アイルちゃん!」
その態度に引っかかったけど、今は気にしないことにした。
それよりも、3日後だ。
久しぶりにアイル様に会えるかもしれない。
そのことを考えるだけで、私の胸はぽっと明かりが灯ったかのように温まるのだった。
◇ ◇ ◇
西の塔、中庭。
ルイーゼが塔を去ってから14日後――
「アイル様」
いつもは冷静な騎士の、少しだけ焦りが含まれた声が飛ぶ。
「少し休憩いたしましょう。朝からずっと休む間もなく訓練をされております。このままではお体にさわります」
レオンの言葉を無視して、少年は素振りを続ける。その面差しは鋭く、思いつめた者特有の焦燥がにじんでいる。
鬼気迫る様子でアイルは剣を振り続ける。自分の弱さを斬り捨てるように。悩みをすべて消し去るように。
ルイーゼが去ってからというもの、アイルの様子は変わった。もともと口数の多い少年ではないが、更に他人と話さなくなった。常にピリピリとした空気をまとっているので、使用人たちにも怖がられている始末だ。レオンが止めるのも聞かずに、朝から晩まで剣の修行に没頭している。
気迫のこもった立ち振る舞いは殺伐としていて、近寄りがたく、前にもまして使用人から遠巻きにされている。
「……アイル様」
今でも少年に真摯に語りかけるのは、護衛騎士のレオンくらいだろう。
レオンは気づかわしげな表情でアイルの横顔を見つめている。
「うるさい」
しかし、忠実な騎士からの諌言を、アイルは冷たい声音で一蹴した。
「放っておけ! ……放っておいてくれ」
一言目はやぶれかぶれに。すぐにハッとしてから、碧眼を歪めて逸らす。
二言目は痛ましげな様子で。
少年は呟いた。
レオンは目を細めて、複雑そうな表情を浮かべる。
と、その時だった。
「アイル様!」
頬を染めて、アイルの元へと駆け寄って来たのは1人の少女だった。
コレットだ。その面差しには驚きの感情が張り付いている。
「アイル様……その……!」
コレットは慌てたようにアイルと、自分の後ろを見比べている。
「何だ」
アイルが冷たく言い放った、直後。
その両耳が、ぴん、と勢いよく立ち上がった。
その時、少年の眼差しに去来した様々な感情。
驚き、焦り、ほんの少しの衝動――そして、胸騒ぎ。
少年が一心に見つめる先には、この塔を去ったはずのメイドの姿があるのだった。
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