19.侍女は変態男を蹴り飛ばす


 気持ち悪い。

 服越しとはいえ、知らない男に体を触られる感覚というものはおぞましいものだった。


 その上、


「ほらほら、どうせ欲求不満なんだろ~? いい反応してんじゃん」


 男はこんな怖気がするほどの触り方で、私が喜んでいると勘違いしているらしい。


 は?

 ……はあ?


 私は2度、心の中で吐き捨てた。

 触られているのももちろん気持ち悪いけど、その自信気な顔が一番、癪に障る。相手が嫌がっているか喜んでいるのか、判断できないって、どれだけの独りよがりだ。


 男の手が胸元に寄ってくる。

 その瞬間。


 ぷちん、と。

 頭の中で何かが切れた。


「ふ、ざ、け、ないでーッ!!」


 私は思い切り、膝で男の股間を蹴り上げた。

 スカートがめくれてはしたない、とかもうそんなこと気にしてる場合じゃない。

 教科書に載せられるくらいの綺麗な膝蹴りが決まった。


「はああう……!」


 男の体から一気に血の気が引く。マヌケな体制で股間を抑えた。

 その隙を逃さず、私は男の腕をとる。


「嫌だって、言ってるでしょうがっ!!」


 男が体勢を崩したと同時に、足を払った。男はこれまた綺麗に回転して、その場に崩れ落ちる。

 股間を抑えながら目を白黒させる男。その鼻先に私は指を突きつけた。


「気持ち悪い! 全力で気持ち悪い! 百歩譲って、変な噂を信じて言い寄ってくるのまではいいとして、こんなやり方ってある!? 私、嫌って言ったよね? あんた、耳聞こえてないの? 目が見えてないの? 相手が嫌がっているかどうかもわからないって、イヌ以下ー!」

「え? え?」


 一気にまくし立てていると、男はぽかんとしてしまう。


 と、その時。

 扉が勢いよく開かれて、誰かが入って来た。


「ルイーゼちゃん、大丈夫か!? ……って、あれ?」


 真剣な表情で走りこんで来たのはイグニスだった。いつもとちがって勇ましい表情……っていうか、そんな顔もできたんだ、ちょっとかっこいい。

 しかし、次の瞬間、イグニスは口をぽかんと開けて、マヌケ面に変わった。


「え? あれ?」


 イグニスは私と倒れた男を見比べている。


「る、ルイーゼちゃん……つっよ……」


 力が抜けたというか、呆れたようにイグニスは言う。

 その直後、男は起き上がって、部屋から逃げ出そうとする。


「……顔、覚えたからな。後で覚悟しろ」


 イグニスがぼそりと告げると、大げさなくらいびくりと跳ねる。

 そして、


「ちがう! その女が誘ってきたんだ! 俺じゃない!」


 往生際悪くそんなことを叫びながら、走り去っていった。


 しん、と室内に静寂が満ちる。


 イグニスは気まずそうに、あはは、と乾いた笑いをもらした。


「やっぱルイーゼちゃん、さすがだわ。野犬を素手でのしてただけのことはある。いやー、本当、ルイーゼちゃんのそういうとこ……」


 と、言いかけて、私の顔を見て。

 ハッとするイグニス。


「え? あれ? ルイーゼちゃん……? どうした?」

「う……ううう」


 私は言葉にならない声を漏らす。


 もう無理。

 もう限界。


 目頭が一気に熱くなる。その熱を全部、解放するように私は大声を上げた。


「もうやだー!」

「へ!?」

「何でこないだから、こんな! こんなことばっかり!!」


 ぼろぼろと涙が零れていく。

 ここ数日にあったことを思い出すだけで、悲しくて、悔しくて。

 その思いが全部、涙に変わって、あふれて止まらない。


「レオン怖いし、嫌がらせ最悪だし、変な噂とか流れて! 何が『俺の相手もしてよ』だ! ばかばか! 言っておくけどね、私はまだ処女だー!!」

「えっと、ルイーゼちゃん……落ちつこ?」

「もうやだ! お家に帰りたいいい! お母さんのご飯食べたいー!」


 私は顔を覆いながら、その場に崩れ落ちた。


 何でこんなことになったんだろう。

 私がいったい何をしたというのだろう。


 私はただ……アイル様のそばにいたかった。アイル様が元気に生きていてくれれば、それだけでいいのに。

 それなのに。どうして、そんな簡単な願いを叶えることすらできないの。


 子供のようにわんわんと泣きながら、気持ちを吐露する。


「アイル様のおそばにいたい……アイル様ともっとお話ししたい……っ」

「ルイーゼちゃん……」


 イグニスが困ったように息を吐いてから。

 私の前に膝まづく。こちらに手を伸ばしかけて、弾かれたように引っこめて。「あー」とか「うー」とか言いながら。

 遊び人とは思えないほどにおろおろとうろたえている。


 しばらくそうしてから、


「……ええっと……あー、もう!」


 意を決したように、イグニスは私の後頭部に手を回した。そして、私を引き寄せる。

 私の額とイグニスの肩が密着する。


「……イグニス様……?」

「とりあえず……ここで泣きな」


 ぽんぽん、と。子供をあやすように、イグニスは私の頭を叩く。


「う、うう……はい……すみません……っ」

「泣きたい時は、思いっきり泣けばいいんだよ。俺の兄貴からの受け売りだけどさ」


 優しい声音がじんわりと全身に染み渡る。

 すらっとしているように見えたけど、イグニスの肩は広くて、ごつごつとしていて。男の人のものだった。そこに額をくっつけながら、私は泣き続けた。


 私がすべての涙を放出して、泣き止むまで。

 そして、ぐちゃぐちゃになった感情が落ち着くまで。


 イグニスは静かに私の頭を撫で続けていた。

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