21.推しの尊さで生きるのがつらい


 アイル様の前に立って、私は言葉を失ってしまった。

 ずっと焦がれていた。会いたかった。

 言いたいことはたくさんあるはずなのに、言葉にならない。


 アイルは私の姿を見て、ひどく驚いているようだった。目を丸くして、鋭い牙の見える口をほんのわずかに開いている。猫耳はぴんと立ち上がっていた。


 ああ、かわいい……。

 推しの姿を見れた感動で私は打ち震える。


 一方でアイルは複雑そうな表情へと変わる。何かを堪えるように俯いてから、きっ、と目をつり上げた。


「なぜここに来た!」


 叩きつけるようにアイルは告げた。


「もう来るなと言ったはずだ!」

「…………っ!」


 私はその言葉に俯いた。体が小刻みに震える。油断すれば叫び出してしまいそうなほどの興奮に私は包まれていた。


 ああ、アイル様だ!

 アイル様が私に話しかけてくれた!


 今日も推しの姿が最高に尊すぎて、


「しんどい……」

「なっ……!?」


 ぽつりと言葉を漏らすと、アイルは怪訝な顔をする。


「なぜ泣いている……?」

「え……」


 そこで初めて私は気付いた。目の端に涙がにじんでいることに。

 慌てて腕で拭って、誤魔化すように笑った。


「すみません……。(推しがかわいすぎて)ちょっと生きるのがつらくなってしまいました」

「そんなにか!?」


 アイルが尻尾の毛を逆立てて、ぎょっとしている。それから私の顔を気遣わしげに見やった。


「君にそんなにつらい思いをさせていたとは……すまない」


 そこで私は気付いた。


 あ、またやっちゃった!

 オタク特有の言い回しをしてしまったせいで、話がものすごく深刻になっている気がする。


「い、いえ! 今のは……その。嬉しいという意味です。アイル様にとてもお会いしたかったので。こうしてお顔を拝見することができて、感動のあまり妙なことを口走ってしまいました」

「無理することはない……強がらないでくれ」


 アイルはますます眉と耳を垂らして、痛ましげな表情をする。


 あ……これってもしかして、誤解が解けてないパターンですかね?


 どう弁解しようかと慌てる私をよそに、話は先に進んでしまう。


「全部、僕のせいなんだ。僕に関わるとろくなことにならない。ここを離れて、王宮にいる間は平和に過ごせるはずだ。だから、もうここに来てはならない」

「ち、ちがいます! アイル様は誤解していらっしゃいます! つらいのは、嫌がらせや悪口のせいではありません。私が何よりもつらかったことは……」


 私は勢いよく叫んだ。


「アイル様にお会いできなかったことなんです!!」

「……え…………?」


 と、アイルが目を丸くする。訝しげに耳がぴくぴくと動いた。


「まさか、それで君は泣いているのか……?」

「はい」

「なっ……」


 私が真剣に頷くと。

 ぼっ、と音を立てそうな勢いでアイルは赤面する。わなわなと震えながら、片方の手でもう片方の腕をつかんだ。俯いて、小さな声で告げる。


「僕は……。僕だって……」


 聞きとれないほどの声で呟いてから、アイルはぶんぶんと首を振る。

 再度、顔を上げた時にはいつものアイルの面差しに戻っている。凛として、強い決意が宿った表情だ。


「それでも、ここにはもう来ないでほしい。僕に関われば、君はひどい目にあう……」

「構いません」


 私はきっぱりと言い切った。


「アイル様に会えるのなら、私、どんなひどいことが起きても堪えます。堪えられます。それ以上に、アイル様にお会いできないことの方がつらいんです」


 アイルはまだ訝しげな表情のままだ。言葉はないが、その無垢な眼差しが「どうして……?」と尋ねてくるのがわかる。

 私は今日のために用意した物をアイルに手渡した。


「アイル様、これをどうぞ。道具がないので、簡単な物しか作れなかったのですが、よかったら召し上がってください」


 アイルのために作ったお菓子。

 オートミールにレーズンとくるみを混ぜて作ったクッキーだ。ボウルで材料を混ぜ合わせて、オーブンで焼くだけのお手軽レシピだ。型を使わないので形は不恰好になるが、素朴な味が私は好きだった。

 アイルは呆然とカゴを見つめている。


「また来ますね!」





 ◇ ◇ ◇



 ルイーゼが嵐のように立ち去った後で。

 残された者たちは――特にアイルは――呆然と立ちすくんだ。


 やがて、明るい声で笑い出したのはコレットだった。


「ルイーゼ、また絶対に来ますよ。あの子、言い出したら聞かないんです」


 と、アイルが持っているカゴに目をやる。


「お茶を淹れてきますね。食べ物に罪はありませんから。まさか召し上がらずに捨てるなんてこと、しないですよね」


 楽しげな様子でコレットは奥へと引っこむ。


 アイルは呆然としたまま、カゴの中身に視線を落とした。

 不揃いな形をしたクッキー。その1つを手に取った。

 端をかじると、ザクザクとした触感とレーズンやくるみの風味が口の中に広がる。その甘味を享受するように、アイルはゆっくりと咀嚼した。


 そして、ぽつりと呟く。


「……美味しい」

「アイル様……」


 レオンがアイルの顔を見て、目を瞬かせる。


 ルイーゼがいなくなってから数日。

 鬼気迫る様子だった少年の表情が、初めてゆるんだのだ。


 ごくりとクッキーを飲みこんで、アイルはもう一度、呟いた。


「すごく……美味しい」


 少年が軽く目の端をぬぐったことに、騎士は気付かないフリをした。


「……彼女は強いんだな。僕は諦めることが当たり前になっていた。望んでも、何も手に入るものなんかないと……。けど……」


 アイルは思いを馳せるように両目をつむる。久しぶりに味わう甘味を噛みしめながら。

 次にその空色の瞳を開いた時、その眼差しに宿っているのは静かな覚悟だった。


「レオン。頼みたいことがあるんだ」


 その言葉に、レオンは目を丸くする。


「……アイル様がそうやって私を頼ってくださるのは、初めてですね」


 驚き、感心したように騎士は言葉を漏らす。

 それからすぐに胸に手を当てて、真摯に答えた。


「アイル様のご命令とあらば何なりと」

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