17.推しが吸えない!!
「……何これ」
私は呆然と立ち尽くした。
あまりの惨状にどうしたらいいのかわからなかった。
仕事を終えて、私は日課であるお菓子作りをするために調理場へとやって来た。すると、お菓子を作るための道具が壊されていたのだ。
泡立て器に粉振るい、木べら――どれも折れていたり、欠けていたり。
更にはお菓子作りの材料までもが無残な有様になっている。生クリームも小麦粉も卵も流しにすべてぶちまけられていた。
(え? どういうこと? 誰がこんなこと……)
あまりの惨状に意識が一瞬、遠のいてから。
脳の芯がカッと熱くなった。
(食べ物を粗末にするなんて……! 許せない!)
食べ物をぞんざいにする人は、フィクションでもノンフィクションでも私の地雷だ。
何のために犯人はこんなことをしたのか――それが判明したのは数刻後のことだった。
塔の内部でもこのことが問題となり、調査が行われた。そこでわかったこと。被害に遭ったのはお菓子作りの道具と材料だけということだった。それ以外の調理器具や食料にはまったく手を付けられていなかったのだ。
それを聞いて、私の胃の辺りがずんと重くなった。
この西の塔でお菓子を作るのは私だけだ。それも道具も材料も自分の給料から買い揃えたものだった。
どういうこと……?
つまりこれって私への嫌がらせ……?
そのことが判明してから、兵士たちの犯人調査の意欲は目に見えて減退していた。壊されたのがすべて私物であり、王宮の物ではなかったからだ。これが王宮の物だったら、大問題になっていただろうけど……。
犯人の動悸は私への私怨であると推定されて、「余計なことをせずに大人しくしているように」と私は注意を受けた。私は被害者のはずなのに、兵士や他の使用人にじろじろと嫌な視線を向けられた。面倒事を増やすなよ……と呆れ顔をされた。
どうしてこんなことに……。
私はただ、アイル様に美味しいお菓子を食べてほしかっただけなのに。
悶々とした思いを抱いて、私は自室へと戻る。
「おかえり、ルイーゼ……今日は災難だったね」
と、コレットが気づかわしげな表情で言った。いつもは元気よく跳ねている三つ編みが、どことなく垂れているようにも見える。
「……うん」
私はそれ以上のことは答えられずに、ベッドに座った。
すると、コレットが立ち上がってこちらへと歩み寄ってくる。隣に座って、優しく私の手を握った。
「あのね。今のあなたにこれを話すことは酷かもしれないけど……。でも、話しておくべきだと思うの」
「……何? もしかして、もっと悪い話があるの?」
私が聞くと、コレットは目を伏せる。その表情だけで私は理解した。どうやらそれ以上に最悪な話らしい。
「メイドたちの間で、最近、変な噂が聞こえてくるの」
暗い声でコレットが話し始める。私はすぐにぴんときた。
「それって……もしかして、私に関係する噂?」
「………………」
コレットは唇を噛みしめて、下を向く。沈黙は肯定と同じだ。
私はふうっと息を吐いた。
「そっか。どんな話? 私が仕事で失敗ばかりする、とか?」
「ううん……そういう仕事の話じゃなくて。その……男の人と、いろいろと……」
「え……?」
虚を突かれて、コレットの顔を見る。
「兵士を誰彼かまわず誘惑するだとか……。その、言いにくいことだけど、最近、この塔にイグニス様が出入りするようになったでしょう? それもあなたがイグニス様を誘ったからだって噂になっているみたいなの」
私は言葉を失った。
つまり、その……股の緩い女みたいな噂が流れているってこと?
そんな。
私、前世でも今世でも男の人と付き合った経験なんてないんですけど。
そこまで考えて羞恥心で埋まりたくなった。かああ、と頬が熱くなるのがわかる。
顔を覆う私。コレットが慰めるように肩をぽんと叩く。
「もちろん、私はそんなのすぐ嘘だってわかったよ! でも、その噂を信じてる人もいるみたいで……」
ああ、それでか。
私は納得した。
台所をめちゃくちゃにされて、私は被害者のはずなのになぜか責められるような視線を向けられていた。それもその変の噂のせいらしい。それで嫌な視線を向けられていたのね。
いったい誰がこんなことを……。
『ルイーゼちゃん。今後はあんまり1人にならない方がいいかもよ』
イグニスに言われた言葉が蘇る。
その意味が一気に現実味を帯びて、背筋が冷たくなった。
嫌な予感は当たった。
それから私は壮絶な嫌がらせの嵐にあった。
噂はどんどん尾ひれがついて、「最高で7股したことがある」「王宮に来る前は娼館で働いていた」なんてとんでもない話になっていた。
私が洗濯したシーツは泥だらけのぐちゃぐちゃにされたり。
きれいに掃除したはずの廊下にゴミをぶちまけられていたり。
噂話に「仕事ができない。男あさりばかりしていて、仕事をしない」が追加されるまで、時間はかからなかった。周りはコレット以外、冷めた目で私を見てくる。「あなたには任せられない」と次々とやることも減らされていった。
極めつけは――
「え……異動?」
数日後、私はメイド長に呼び出されていた。メイド長――ダネットは黒い髪をひっつめにして、神経質そうな目つきをした女性だ。西の塔だけでなく王宮全体におけるメイドの人事や指導を担当している。
彼女に言われた言葉を飲みこむことができずに、私は立ち尽くした。
ダネットは鬱陶しそうな表情を浮かべている。ずけずけと棘の含んだ声で言い放った。
「だから、あなたがこのままここにいたら困るのよ。どうせ痴情のもつれで、誰かから恨みを買ったのでしょうけど。そのいざこざに私たちを巻きこむのは勘弁してほしいわ」
と、虫でも見るかのような目で私を見やる。どうやら彼女は私の悪い噂を信じこんでいるらしい。
私は必死で弁解した。
「ちがいます! 私……男の人を誘惑したりなんてしてません!」
「真実かどうかはどうでもいいの。現に周りに迷惑をかけていることが問題なの。おわかり?」
冷ややかな声でダネットは告げる。
「ルイーゼ・キャディ。あなたは王宮勤務に戻りなさい。今後、西の塔への出入りは禁止とします」
「そんな……」
私は絶句した。足元がばらばらと崩れていく感覚。真っ暗な闇に意識が飲みこまれそうになる。
話はそれだけだ、と取り付く島もなくダネットに追い出されれる。
私はふらふらと歩き出した。
廊下を行く途中、たおやかな尻尾が視界に入り、
「アイル様……!」
私は思わず走り出していた。
廊下の角を曲がると、アイルの凛とした背中がある。私はその背に必死ですがった。
「アイル様、私……! がんばります……! ご迷惑をおかけしないように何とかします。だから、だから……」
――どうかおそばにいさせてください。
私のそんな願いもむなしく、アイルはこちらを振り返ることもしない。
静かな声で告げた。
「……もう、ここには来ないでくれ」
「アイル様……」
私は絶句して立ちすくむ。
アイルは一度も私の方を見ずに、その場から去って行った。
◇ ◇ ◇
その日の夕方。
ルイーゼは西の塔を後にした。
彼女を見送ったのはコレット1人だけ。他は「ようやく厄介者がいなくなる」と胸をなで下ろす者ばかりだった。
しかし――
ルイーゼは気付いていなかった。
塔の上階の一室。窓際からルイーゼに視線を送っている人物がいたことに。
「……すまない」
アイルは沈痛な面持ちを浮かべて、ずっとルイーゼのことを見ていた。
その猫耳が痛ましげに垂れ下がる。
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