閑話 初めての人(アイル視点)


 アイル・レグシールは孤独に生きて来た少年だった。

 西の塔にずっと幽閉されて育ち、外に出たことは一度もない。身の回りの世話をしてくれる使用人はいるが、誰もが一歩引いた態度でアイルに接していた。


 聴覚がすぐれているために、アイルの猫耳は実に様々な声を拾ってしまった。


「半獣人の子」

「けがらわしい」

「王が不貞の末に作った子。誰が母親かもわからない」

「公表できないほど母親の身分が低いにちがいない」

「獣人の娼婦か? ますますけがらわしい……」


 表ではアイルに笑顔で接している使用人が、アイルの姿がないところでは好き勝手に悪口をまき散らしている。

 アイルは3歳の時にはそういった中傷の声を聞いていた。それからもずっとそういった悪意のある言葉を浴び続けて育った。


 そのうちアイルは感情をなくした。

 悲しい、寂しいと思うことがなくなった。


 アイルの心に残ったのは、「見返してやる」という思いだけだった。


 レグシール国の人たちは本来の獣人の姿を知らないのだ。知らないから憶測で獣人がどういうものかを捉え、それが悪い方向にいってしまっているだけなのだ。


 獣人は野蛮でも愚鈍でもない。人間より能力が劣っているわけではない。

 そのことを証明するために、アイルは剣を振り始めた。


 使用人は表では「アイル様は運動神経も優れていてさすがですね」と褒め称え、その裏では「やっぱり獣人は野蛮なのね」と蔑んだ。その言葉をすべて聞き流して、アイルは剣を振り続けた。


 獣人の優れている点を示したかった。そのためには武人としての才覚を認めてもらうのが手っ取り早いと思っていた。

 レグシール国で毎年開催される剣闘大会。出場して、自分が優勝すれば、きっとわかってくれる人もいるはずだ。


(それに……剣闘大会には、お父様が来る)


 アイルは毎日剣を振りながら、そのことを考えた。

 父であるエドガーとはもう長い間、会っていない。顔すら思い出せない。

 けれど、エドガーは自分を王宮から追放しなかった。きっと何かどうしようもない理由があって会いに来てくれないだけで、本当は自分のことを大事に思ってくれているにちがいない。

 だから、こうしてアイルのことを西の塔に置いてくれているのだ。


 アイルの心の支えは、「本当は父親に愛されているはず」という想像だけだった。


 毎年、剣闘大会の優勝者には、国王が直々にトロフィーを渡す習わしとなっている。


(優勝すればお父様に会える……)


 久々に会う父親は、自分を見てどんな顔をするのだろうか。

 成長を喜んでくれるだろうか。「よくやった」と褒めてくれるだろうか。


 その瞬間だけがアイルの楽しみだった。それだけを心の支えにして、アイルはずっと剣の修業を続けた。


 ――どれだけ人から罵られようと。

 ――誰からも理解されなかろうと。


 エドガーが認めてくれさえすれば。

 それだけでアイルの頑張りは無駄にはならない。自分には存在意義がある。


 そして、14歳の秋。

 剣闘大会の出場条件である年齢を満たす年が来た。


 アイルは素性を偽って出場登録をした。塔から抜け出すことは簡単だった。今までやろうとしなかっただけで、アイルの運動神経をもってすれば塔の最上階から飛び降りることなど造作もないことだった。


 剣闘大会が始まった。アイルは順調にトーナメントを勝ち進んだ。

 決勝戦の最中、それは起きた。対戦相手の剣先がフードをかすめる。気が付いた時にはフードがとれ、猫耳が露わとなっていた。


 周囲のざわつく声が聞こえてくる。しかし、アイルはフードをかぶり直すことはせずに堂々と構えた。

 もともと最後には自分の正体を明かすつもりでいたのだ。それが少し早まっただけのことだ。

 それに、実力はもう十分に見せつけた。トーナメントを進むごとに観客席からの声援は白熱していた。決勝戦の最中もアイルは歓声を持って受け入れられていたのだ。

 だから、今さらその正体が半獣人だからといって、評価が覆ることはないはず……。


 そう思っていたアイルの耳に浴びせられたのは、罵声だった。


「半端者」

「汚い獣人」

「伝統ある大会を穢した。つまみ出せ!」


 アイルの体は硬直した。


 少年が思っているよりも、レグシール国の差別意識は根強いものだったのだ。その意識は特に王都近くに住む人ほど強くなる。戦争時には王家が中心となって、獣人への中傷をばらまいていたからだ。


 アイルは信じられない思いで観客席を見渡した。


 ――どうして。


 先ほどまでは天才だなんだのともてはやされていたのに。正体が獣人だとわかっただけでこの掌の返しようだ。


 自分が今までしてきたことは無駄だったのか?


 手足が冷たくなっていく。意識が暗い深淵へと引きずりこまれようとした、その直前で。


(お父様……)


 アイルは持ち直した。

 いや、まだだ。

 まだ希望は残っている。


 アイルは必死で国王の姿を探した。


(他の誰にも理解されなくてもいい。お父様さえ、僕のことを認めてくれたら……)


 一縷の希望をかけて、賓客席を仰ぐ。


 そして、絶句した。

 エドガー王は眉をひそめて、嫌悪の感情をむき出していた。そして、その表情のまま席を立ち、奥へと向かう。汚らわしい存在から遠のこうとするかのように。


(ああ……そうだったんだ)


 アイルの手から剣が滑り落ちた。観客席からの罵倒の声はだんだん大きいものへと変わっていったが、アイルの耳にはもう何も聞こえてこなかった。


 今までずっと小さな希望にすがって生きて来た。


 努力すれば、誰かが自分のことを認めてくれるのではないか。

 エドガー王に自分は愛されているのではないか。


 でも、それはただの幻想だった。

 自分1人が努力したところで、獣人への差別は変わらない。エドガーは自分のことを欠片も愛していない。


 その事実に直面して、自分の足元がバラバラに砕けていく感覚をアイルは覚えた。


(そうか……僕は、誰からも……)


 愛されていない。

 必要とされていない。

 アイル・レグシールという少年に存在意義はない。


 自分は疎まれ者で、厄介者の、汚らわしい半獣人。それだけにすぎないのだ。

 硬直していく。体も、心も。冷たく重い石のように変わっていく。


 何も感じられなくなって、アイルが呆然と立ちすくんでいた――その時だった。


「アイル様、危ない!」


 誰かが、アイルの前に躍り出た。がん、と重い音が響く。

 アイルの手前で誰かが倒れた。


(え……)


 アイルはその様を呆然と眺めていた。


(……誰だ…………?)


 心に湧いてきたのは「誰が? なぜ?」という問いかけだけだった。




 その女性はルイーゼというらしい。

 侍女の格好をしているが、アイルには見覚えのない女性だった。


 色白の肌。細く淡い色の金髪。儚げな容姿の少女だ。意識を失い、医務室に運ばれた彼女に、アイルはずっと付き添っていた。


(なぜ……僕を庇った?)


 その理由がわからない。


 誰もが自分を疎ましく思っているはずだった。実の父親さえも。

 それなのに、なぜ見知らぬ女性が身を呈して自分を庇ったというのか?

 そんなことをして、彼女に何の利益があるというのか?


 アイルにはまるで理解できなかった。


 ルイーゼが目を覚まして、その理由を問いただしてみれば、


『アイル様は私の大切な推しだからです!!』


 ますます意味がわからなかった。


 初めて聞いた単語の意味を尋ねてみれば、それは「好きな人」ということらしい。


(すき……? すきとは、何だ?)


 アイルはその言葉を実感できずに考えこんだ。


 アイルにそういう特別な人間は、今まで誰1人としていなかった。エドガー王に愛されたいと思ったことはあるけれど、では自分は父のことを愛しているのかと聞かれればちがう。すがる対象であったというだけで、特別な感情を持っているわけではない。


 だからこそアイルは混乱した。

 なぜこのルイーゼという女は自分を好いているのか。なぜ身を呈して自分を庇ってくれたのか。

 何もかもわからない。わからないから、怖いとすら思った。


 それからもルイーゼは自分にとって理解不能な行動ばかりをとった。


『アイル様は……どうして、剣の修業を行っていらっしゃるのですか?』


 剣を振る意義を訊かれたのは初めてだった。思えば、他の使用人たちは自分という存在に興味を持っていなかったのだろう。

 だが、ルイーゼはちがっていた。自分のことを知りたいと踏みこんで来た人間は、彼女が初めてだった。


『アイル様はすごく、がんばっていらっしゃると思います』


 そうして認めてくれたのも、彼女が初めてだった。


『アイル様の様子を見ていれば、わかりますよ』


 自分の些細な表情のちがいに気付いてくれた人も。


『お菓子、お口に合いましたでしょうか?』


 自分のためにわざわざ手作りの菓子を作ってくれた人も。


 彼女のそばにいると、心がぽかぽかと温かくなる。凍りついていたはずの感情が溶け出していくかのようだった。


 ルイーゼと話していて、自然と笑うことができた自分に気付いて、


(ああ、そうか……)


 アイルは生まれて初めてその感情を知った。


(これが、楽しいという気持ちか)


 気付けば、もっと彼女のそばにいたいと思うようになっていた。


 楽しい、嬉しい、安心する――。

 その感情が心地よくて、もっと感じていたいと思った。


 だけど、


(ダメなんだ……僕が彼女のそばにいたら)


 浮かれていたから、そんな当たり前のことに気付かないでいた。


 半端者で疎まれ者の自分が、彼女のそばにいたいと願うなんて――

 そんなこと許されるわけがなかった。




 そのことを思い出させてくれたのは、アイルを襲った野犬たちの存在だった。

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