10.侍女は犬を投げ飛ばす
何? 何が起きたの!?
背中を地面に打ち付けて、私はうめく。
獰猛な唸り声が頭上から降って来た。
「がああああッ!」
身の毛もよだつほどに恐ろしい声。
怪物でも襲ってきたのかと心臓が凍り付く。
「机の下に隠れろ!」
アイルが鋭い声で言い放つ。と、同時に、弾かれたように飛び出した。
身軽な動作で脚を振り上げる。鞭のようにしなる足が怪物の横面を叩きつけた。
「きゃいん!」
そいつがテーブルから落ちて、甲高い鳴き声を上げる。
そこで私は襲ってきた怪物の正体に気付いた。
(嘘……! 犬……!?)
頭から地面に落下して、痙攣している黒い塊。それはただの犬だった。
とはいっても、日本で見た愛玩動物とは次元が違う。
見た目はドーベルマンに近い。骨が浮き出るほどに痩せた体躯。汚れてぼさぼさになった毛。血に飢えたような猛々しい目付き。その姿を視界に入れて、背筋がぞっとした。
(私の知ってる犬と、全然ちがう……!)
唸り声が地鳴りのように響いている。それが四方から聞こえてきて、私は囲まれているということに気付いた。
中庭にある
アイルがすばやく辺りを見渡し、犬の居場所に目星をつける。
と、次の瞬間には動いていた。
机の上にあったポットを放る。「きゃん!」と犬の叫び声が響き渡った。直後、別の草むらから1匹の犬が飛びかかる。が、その行動もアイルはすでに読んでいたようだった。足を踏み出し、ひるまず前へ。飛びかかってきた犬の胸元を力強く蹴り上げた。
鳴き声が尾を引いていく。後ろへと吹き飛んだ犬は、低木を押しつぶして倒れた。
(さすがはアイル様……!)
武器がなくても十分強い!
反射神経も運動能力も極まっている。やはり獣人の血が混ざっているからこそなんだろう。
私が安堵した、次の瞬間。
アイルの背後に黒い影が躍りかかった。
もう1匹いた――!
「アイル様!」
アイルが危ない!
そう思ったら、私はじっとしていられなかった。
アイルと野犬の間に割って入る。その時の私は、恐怖心に突き動かされていた。犬への恐怖ではない。アイルが害されるかもしれないという恐怖だった。
(アイル様が傷付くのだけは……!)
こちらの喉笛を狙って跳躍した野犬。私は腰を落とし、その一撃を避けた。
両手を上へ。
犬の両肩をつかむ。
踏みこみ、のちに体をひねる。
(絶ッ対に、嫌―――っ!)
その思いを全身にこめて、えいや!
飛びかかって来た勢いを利用し、犬を地面へと叩きつける。
きゃいん! 悲鳴が轟いた。
そこでアイルが振り向いて、
「おい、大丈夫か!?」
「はい……その、びっくりしました」
ドキドキと高鳴る胸を抑えながら、私は振り返る。私が投げた野犬は白目をむいて気絶していた。アイルはその犬へと目を向けて、怪訝な顔をする。
「今……君は何かしたのか」
「いいえ」
どうやら私が犬を投げた場面をアイルは見ていなかったらしい。
だから、素知らぬふりで言った。
「私、怖くて咄嗟にしゃがみこんでしまいました……そしたら、その犬が勢い余って、地面にぶつかってしまったみたいで」
「そうか……」
と、アイルはほっと息を吐いている。
ごめんなさい……アイル様。嘘を吐きました。
でも、言えません。前世で私は合気道教室に通っていた経験があるなんて。
それも立派な目標があったわけではなく、当時、ある格闘漫画にはまっていたからだなんて。
そこに出てくるヒロインが強くてかっこよくて……彼女に憧れて、合気道を習っていたなんて。
私は遠い目で昔のことを思い出していた。
私は根っからのオタクだ。特にゆんちゃんに言わせれば、「アクティブなオタクは興味のあることに片っ端から手をつけるからやばい。あんたのことよ!」とのことで……。
私はとにかく漫画やゲームに影響を受けやすかった。
ゲームのキャラの必殺技を真似て、傘を振り回して壊し、お母さんに大目玉を食らったり。
漫画の舞台になった場所には必ず出向いて、巡礼したり。
パン作りをテーマにした漫画にはまれば、次の日には道具を一式買いそろえてきたりして。
当然、そうなればお小遣いだけでは足りなくなるので、アルバイトもたくさんしていた。もちろんバイト先は、アニメでモデルになった有名カフェだったり、ファースト店だったり。
しかし、私は今、前世がオタクでよかった……! と、猛烈に感動していた。
そのおかげで、私は合気道を習っていた。アイルの身を守ることができたのだ。
アイルの方を見るとケガはしていないようで、私は安堵した。アイル様の尊い御身に傷でもついたら発狂ものだ。そんな恐ろしい場面を目の当たりにするなんて堪えられない。
それにしても、この犬たちはどこから現れたのだろう?
ここは王城の中でももっとも奥まったところに位置する。野犬が迷いこんだなんて、万が一にでもあるわけがない。
「アイル様……この犬たちはいったい……?」
「恐らく……」
何かを言いかけて、アイルは首を振る。
「いや、何でもない。すまない。僕のせいで危険な目に遭わせた」
「どうしてアイル様がお謝りになるのですか。アイル様は私のことを守ってくださいました。ありがとうございます」
私は深々と頭を下げる。
すると、アイルはぐっと何かを堪え、目をそらす。
そのやりきれなさそうな面持ちを前に、私は何も言えなくなってしまった。
◇ ◇ ◇
その日、ルイーゼが気付いていないことが2つあった。
庭園で起きた事件を目撃していた、
1人は王城のバルコニーにて。
ベランダにはテーブルと椅子が設けられていた。少年はそこでくつろぎ、優雅に紅茶を飲んでいた。その後ろに控えているのはメイドと騎士だ。
侍女の1人が少年へと歩み寄り、声をかける。
「フランツ様。お茶のお代りはいかがいたしますか?」
しかし、少年――フランツは答えない。
その瞳はまっすぐ庭園へと向けられている。
「何だ、あの女。アイルが必死に庇っているようにも見えたが」
フランツは訝しげな顔で、口元に手を当てる。
そして、得心が行ったように微笑んだ。
「そうか。あの女はもしや……あの出来損ないのお気に入りなのか」
唇の端をつり上げ、フランツはほくそ笑む。そして、侍女へとカップを差し出し、「お代りを」と言いつけた。
フランツの表情を見て、使用人たちは「今日のフランツ様は機嫌がよいようだぞ」と顔には出さずに、ほっと胸をなで下ろす。
そして、ルイーゼたちを見つめていたもう1人の影。
それは、レオン・ディーダだった。
その日、レオンは国王陛下に呼び出され、アイルのそばを離れ、王城へと向かった。
しかし、いざ王城についてみれば、誰もそんな話は聞いていないという。
嫌な予感を覚え、レオンは足早に西の塔へと戻った。
途中で獣の鳴き声が聞こえ、レオンは走った。しかし、彼が駆けつけた時には、すべてが終わった後だったのだ。
レオンが中庭にたどり着いた時、彼が見たのは1つの光景だった。
野犬がアイルに背後から襲いかかる。その間に割りこんだのは1人の侍女だ。
レオンは瞠目した。
侍女が野犬をつかんだ。その体が宙を舞う。次の瞬間、犬は彼女の背後に伏せていた。彼女が犬の勢いを利用して地面へと投げたのだ。見たことがない技だった。レオンは子供の頃より騎士団長の元で育ち、ありとあらゆる武術を叩きこまれて来た。
そんな彼ですら、彼女の動きは未知の領域のものだった。
「何だ、あの女。ただの侍女とは思えない」
レオンはルイーゼを見据え、険しい表情を浮かべる。
「何者だ……」
ぽつりと呟いた声は誰に聞かれることもなく、秋の夕風に溶けていく。
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