第5話 弟 子分になる

 アンジェリーヌが部屋に戻っていた後の食堂は冷たい沈黙に支配されていた。

 侯爵は食事の手を止めて、腕を組んで目を閉じている。その顔は眉間にしわを寄せている。

 マノンの顔は青ざめ、侯爵が何を言うのか怯えるように身を竦めて待っている。そしてアンジェリーヌを虐めていると名指しされたメイドは食堂を出て行こうとして執事に留められ、真っ青な顔で立ち尽くしていた。

 そして僕——アベルはそんな凍り付いたような空気の中、当然食事をすることもできずに黙ってうつむいていた。

 姉が家族や使用人からないがしろにされていたのはなんとなく感じていた。アベルには隠してやっているつもりだったろうが同じ家で暮らしているのだからわからないはずがない。

 自分には優しい母だったが、姉には笑顔をあまり見せることはなかった。母はいつも厳しく接して、二人の間にはいつも緊張感が漂っていたように思う。

 でも父が一緒にいる時だけは姉にも笑いかけ、優しい言葉をかけていた母。

 そしてそれが当たり前の光景だったから何もしなかった僕。

 これまで見て見ぬふりをして放置していたのだから今更だとわかっている。幼いころからそういう生活であり、姉も黙っていたのだからそれが普通なのだと思いこんでいた。

 それに、幼心に姉より自分の方が好かれているという事実に優越感を感じていたのも否めない。


 そんな母を糾弾していた先ほどの姉の姿を思い出す。

 姉はこれまでの事を淡々と母に突きつけていた。

 姉があんな風に大きな声で言いたいことを言ったり、反論したりするのを見たのは初めてだった。

 それを聞き、当たり前に思っていたことがどれだけ異常な事だったのか、アンジェリーヌが我慢し、犠牲になってくれていたおかげで毎日が普通に暮らせていたのかを知った。

 現に、アンジェリーヌが父に訴えたら幸せな日常は一瞬にして崩壊してしまったのだから。


 長い時間の沈黙を経て、父は目を開けてマノンを見た。

「マノン、アンジェリーヌの言っていたことは本当か」

「ち、違います! 私はあの子を大切に思うあまり……母としてあの子が侯爵家にふさわしい令嬢として恥ずかしくない様にしていただけなのです。それで厳しくしていたのをあの子はいじめだと……虐待だと感じていたのだと思います」

「ではなぜ、アンジェリーヌの食事は古く冷たいものだったのだ」

「それは……それは使用人たちが勝手にしたことです!」

「そんな! 奥様!」

「おだまりなさい! あなた、確かに私も義理の娘に何も思わなかったとは申しません。懐いてくれないあの子に苛立って、少し言いすぎたり冷たい態度を思わずとったりしてしまったこともあります。それについては謝罪します。そんな私を見て使用人たちは、あの子をないがしろにしてもいいと解釈したのに違いありません。冷たい食事を食べさせられていたなんて……」

 マノンは涙を拭った。

 しかしその空々しさに、アベルは胸が痛んだ。大好きな母の汚い姿を見て幻滅してしまった。

 父は唇を噛みしめているアベルに目をやると、

「アベル、目の前ですまなかった。あとは執務室で話をしてくるからお前はゆっくりと食事をしなさい」

 そう言って、先ほどのメイドは即解雇し、その他のメイドの事も調査するよう執事に言いつけると、マノンを連れて食堂を出て行った。




 すっかり食欲をなくしたアベルはスープだけを何とか飲み込んでから、スープをもう一度温めてもらった。

 母やメイドの一部から冷たくされているのは知っていたが、アンジェリーヌがいつも冷たいスープや料理を出されていたことなど知らなかった。

 久しぶりに温かいものを食べさせてもらえるのね、と言っていたアンジェリーヌなのにスープを持っていかなかった事が気になっていたのだ。

 アベルは温かいスープを持って部屋に行ったが、ドアを開けて驚いた。

 食事を終えたアンジェリーヌが、ベッドの上で大きなクッションを抱え込んで胡坐をかいていたのだ。

 アンジェリーヌは常に令嬢らしい品のある所作で、きちんとしていたから、自室だからといってその品性に欠ける怠惰な姿に驚いたのだ。


「……姉上、一体どうしたんですか?」

「何か用? 役立たずさんとは別に話すことないのだけど」

 ちらっとアベルに目をやっただけですぐに興味をなくしたように目をそらすアンジェリーヌに傷つく。

「あの……温かい間にどうぞ」

 アベルはおずおずとスープをテーブルに置いた。

 アンジェリーヌは少し目を見開きアデルを見ると、礼を言いながら口にしてくれた。

 それを見ながらアデルはアンジェリーヌに謝罪した。

「……姉上が僕たちを疎む気持ちはわかります。ごめんなさい。今、父上と母上は話をしています」

「そう。今更関係ないわ」

 アンジェリーヌはそっけなくアベルに言った。

「……なんだか昨日までの姉上とは違うみたい。本当に……姉上ですよね?」

 違うはずもないのだが、そう思ってしまうほどアンジェリーヌの雰囲気も話し方も所作までもすべてが違っていた。


「さあ、私には家族なんていないんじゃない? 家族として扱ってもらったことないしね。スープには感謝するわ、でも用が終わったなら出ていってね」

 アベルの事を憎むというより、まるで関心のない様なアンジェリーヌにアベルは顔を歪めると

「……。姉上はあまり皆と顔を合わせたくないでしょう? じゃあ僕の協力が必要だと思います。食事を運んだり、用事を言いつけたりする連絡係とか……」

「別に平気よ。あなたは急にどうしたの?」

「僕、後悔してて……罪滅ぼしをしたくて」

「必要ないわ。あなたも子供でどうしようもなかったのだから。それに私には……別の人生の記憶があるみたいなの。私の家族はこの記憶にある優しい両親と、ちょっと怖い兄だけだから。あなたの事は弟役をしている赤の他人って感じだし、何も求めるつもりはないわ。だから私の事なんか気にしないでいいのよ」


 アンジェリーヌが弟として自分に何も興味を持っていないことがはっきりとわかり、ひどくショックを受けた。

 弟の自分だけが家族に大切にされるのを見てどれだけ苦しかっただろう。自分など嫌われて当然だと分かっている。それでもそんな自分に色々教えてくれたり、刺繍をしてくれたアンジェリーヌの事は好きだった。


「……ごめんなさい。でも姉上の兄弟は僕だけだよ! そんな訳の分からない事なんか言わないでよ!」

「だから気を遣わなくてもいいから。いてもいなくてもどうでもいい姉なんか放っておいてくれていいのよ」

「どうでもよくない! 信じてくれないと思うけど姉上の事好きだったし……僕なんでもするからそんなこと言わないで!」

「……。なんでも?」 

 アンジェリーヌは少し口角をあげる。

「なんでも!」

「そこまで言うなら子分にならしてあげてもいいわ」

 アベルはこの日から弟から子分になったのだった。

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