第3話 もう一人のアンジェリーヌ

 翌日の朝食の席にアンジェリーヌはつかなかった。

 メイドが食事の時間だと知らせに来ても、返事もせず、ドアも開けずに放っておいた。

 するとしばらくしてまたノックの音が聞こえ、今度は弟のアベルが声をかけてきた。

「姉上、起きてらっしゃいますか? 入ってもいいですか?」

「いいわよ」

 アベルの訪室に、アンジェリーヌは入室の許可を出した。

「姉上、昨日のこと父上は怒っておりません。それどころか姉上に謝らないといけないって、話をしたいって言っていました。だから心配しないでいつもとおり出てきて下さい。母上には昨日のことはまだ伝わってないから」

 アンジェリーヌは布団から顔を出してアベルを見た。


「ここに朝食持ってきてくれると助かるのだけど」

「え? 姉上?」

 アンジェリーヌの上品とは言えない所作とくだけた話し方にアベルは驚く。

 いつもお淑やかで、令嬢としての所作やマナーが身についていたアンジェリーヌとは思えない言動なのだ。

「偽家族と食卓囲むなんてまっぴらなのよね、消化に悪いじゃない。だから持ってきてくれない?」

「あの……まだお酒残ってますか?」

「あんなちょっとの酒が残るわけがないじゃない。使えない子ね。いいわ、もう結構。役にたたないのなら部屋から出て行ってね」

 アンジェリーヌはさっさとアベルを追い出した。

 そして手早く自分で服を着るとドアの前で待つメイドに声をかけた。

「ああ、あなた今日でお役ごめんよ。今までイヤイヤ世話をしていたのでしょ? 私は一人で出来るから必要ないわ」

「そんな! 私がいなければ髪の支度も服も……」

「あなたより自分で可愛く髪をゆえるわ。だから必要なし。仕事のできないあなたがいたって邪魔なだけだしね。まあ、マノンの手先でいじめ要員としての仕事だけは出来ているみたいけど?」

「お、奥様に向かって!」

「じゃああなたは何様? 仕えるべき相手に偉そうに文句言って、世話もへたくそで。言い返せないからって何してもいいと思っていた? あなたレベルのメイドなどいない方がましよね。っていうか、仕事ができないのだからメイドとは呼べないわよね。他のメイドが可哀想だもの。あ、もういいのよ。早く言いつけてらっしゃい」

 顔を真っ赤にして怒りもあらわにメイドは去っていった。


 主人に対するとは思えないような態度で去っていくメイドをアンジェリーヌは見送った。

 彼女はいつもアンジェリーヌを虐めていた。

 髪を梳かす時にはわざときつくひっぱりアンジェリーヌに痛みを与え、野暮ったく見えるような化粧を施していた。アンジェリーヌは後でいつもそっとやり直していたのだ。

 掃除やベッドメイキングもわざと忘れ、時にはアクセサリーを盗んでいくこともあった。しかし、それはマノン公認のもと行われており、アンジェリーヌは誰にも助けを求めることが出来なかった。


 だけどこれからはそんなことを許すわけにはいかない。

 アンジェリーヌを見守ることしかできなかった私は、助けることが出来なかった。彼女がいつか戻ってきてくれることを信じて私はアンジェリーヌの居場所を作っていく。


 私もアンジェリーヌ、それは間違いない。

 ううん、正確にはアンジェリーヌの中にずっといたアンジェリーヌの双子の片割れ。

 生まれるまえに身体が吸収され一人になってしまった時、私の魂はアンジェリーヌの奥底に残ってしまった。私たちの魂はほとんど融合し、彼女の見るもの聞くもの、思いでさえ共有した。


 違うのは、私が前世の記憶を持っていた事。アンジェリーヌは私の事を知らない事。


 私はアンジェリーヌの人生を見守るしかなかった。彼女の中に住まわせてもらっているだけで何も手出しは出来なかった。

 義母や義母の息のかかったメイドにつらく当たられてもいつも何も言えなかったアンジェリーヌ。

 悲しくて苦しくても、頭が真っ白になり声を出せなかったアンジェリーヌ。

 求めても助けてくれない父の事もいつの間にかあきらめていた。でも本当は父に気がついて欲しかった、愛して欲しかったのだ。

 でも家族として愛情を求めなければ傷つくことはないと、殻に籠ってしまっていた。

 そして、何も言えない弱い自分の事も大嫌いだった。助けてと、辛いのと…たった一言言えなかったアンジェリーヌ。

 救いを求めて伸ばした手を振り払われ、お前は邪魔だと、いらないと言われるのが怖かったから。




 あの日、父から食べなさいと言って渡されたチョコレート。

 アンジェリーヌは、欲しいのはこんなチョコレートなんかじゃない……そう思いながらも断れずに食べたのはボンボンだった。

 チョコレートをかんだ時、チョコの中から刺激の強いアルコールが口中に広がった。

 その刺激に眉間にしわを寄せてアンジェリーヌは飲み込んだが、しばらくすると頭がくらぁとした気がした。

 本来ならそれはアルコールが持つリラックスという恩恵、しかしそれはいつも心を守っていたアンジェリーヌの心の鎧を緩ませた。

 アンジェリーヌは閉ざしていた外界からの刺激を受け取ってしまったのだ。

 いつもなら聞き流せていた父の叱責。それが鎧のとれた心に直接突き刺さった。


 父は義母に対するアンジェリーヌの日頃の態度を責めた。

 全てマノンの虚言だというのに、父は娘のアンジェリーヌの言い分を聞かず、心を慮ることもなく冷たい言葉をぶつけた。

アンジェリーヌの心は、より鋭敏にそれを受け取った。


『助けて、誰か助けて。お父様なぜ私を見てくれないの、どうして助けてくれないの。私の事嫌いなの? いらないの? お母さまより私より、あの人の方が大事なの? 私を殴らせているのは本当にお父様なの?』


 アンジェリーヌの心の中で口に出せない言葉が溢れる。口に出すと後でマノンに叱られるから。

 悲しげに父を見つめたアンジェリーヌにマノンの言うことを聞くようにと父は言った。

 それに絶望したアンジェリーヌが黙ってうつむいた時に、父は大声を出しアンジェリーヌを修道院へ入れると脅した。


 拒絶された……お前などいらないとはっきり告げられたアンジェリーヌの心は砕けてしまった。

 もう耐えられない、辛い、何も見たくない。アンジェリーヌはぎゅっと目を閉じた。

 拒絶されたアンジェリーヌの方も、世界を拒絶した。

 

 周りから音が消え、アンジェリーヌは二度と目の覚める事のない眠りについた。


 そして

 いきなり表舞台に出されたもう一人のアンジェリーヌは混乱した。

 これまでそっと見守っていただけなのに、思考が、体が、自分の思い通りになる。

 アンジェリーヌが……自分の半身が消えたと悟った。



 アンジェリーヌ? どこにいったの?

 どこか深い深いところで眠りについたのかもしれない、傷つきすぎて消えてしまったのかもしれない。

 この男にまで手を振り払われるのが怖がっていたから。

 そうね、小さなころに助けを求めても助けてもらえなかったものね。そして現に今捨てられてしまったものね。

 上等よ、それならそれで構わない。私はお前たちを絶対に許さない。

 私の大切な半身を追い詰めたお前たちを許さない。


 新しいアンジェリーヌの誕生だった。


 そうして私は気合を入れるために自分の頬を張り、父に反撃を開始したのだった。


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