第2話 チョコレートボンボン

 ——アンジェリーヌとロジェの婚約解消騒動からさかのぼること数週間前——


「姉上……・いい加減にそのみっともない姿をどうにかしてください。」

「みっともない? そう?」

 アンジェリーヌはソファーにごろごろ寝転がりながらテーブルに手を伸ばし、お菓子を掴んでは口に運んでいた。とても貴族令嬢の姿には見えない。

「とっても楽だしくつろげるわよ。こちらの世界の人のようにマナーがどうとか、24時間貴族! なんて堅苦しいじゃない。家にいるときくらい気を抜きたいと思わない? アベルも遠慮しないでごろごろすれば?」

「しませんよ。まったく。僕以外の人間が見たらどうなると思っているのですか。姉上が……おかしくなったこと皆に知られるとまずいでしょ?」

「別に。追い出されたら追い出されたで何とでも生きていけるわよ。私はご令嬢と違って何でもできるしね」

 アベルは、これまでのおとなしくて気品のあった姉と似ても似つかないアンジェリーヌにため息をついた。




 一週間までのアンジェリーヌは物静かで、控えめであまり家族とも話をしなかった。

 夕食後、皆はラウンジに移動してお茶をするのに、アンジェリーヌだけは自室に引きこもってしまっていた。

 たまに同席してもほとんど言葉も発さず、皆の話を聞いているのかわからないくらい静かにしており、母のマノンが一生懸命話しかけても少し頷くくらいで、黙ってうつむいていることが多かった。

 日頃のそんな態度の娘に思うところのあった父であるペルシエ侯爵は、一週間前の夕食後、息子のアベルに呼びに行かせて無理やりアンジェリーヌをお茶に同席させた。

 使用人たちがお茶の用意をして下がると、アンジェリーヌはそっと紅茶を一口飲みカップを置いて膝の上で両手を握りしめていた。

 そんなアンジェリーヌに気にも留めず、弟のアベルは無邪気に侯爵に今日あったことを報告する。

「父上、僕家庭教師から周辺国や外交について学んだのです。父上のお仕事がどれだけ重要で大変なのか。本当に尊敬しています!」

 息子のその言葉に機嫌のよくなった侯爵はアンジェリーヌにも話しかける。

 しかしいつも通りあまり話さず、俯いてばかりの娘にため息をついた侯爵は、綺麗な箱に入ったチョコレートを差し出した。

「頂き物だ、有名な高級菓子店のチョコらしい。食べなさい」

 アンジェリーヌは無理やり渡されたチョコレートボンボンを黙って口に運んだ。

 アンジェリーヌがチョコを口にしたのを見て満足したように侯爵は頷いた。

「お前はもう少し家族との時間を持ちなさい。そしてたまにはマノンに付き合ってやりなさい。お茶会に誘っても来てくれないと嘆いていたぞ。お前の方から打ち解ける努力をしなさい。お前の事を実の娘と思って大事にしてくれているじゃないか。何が気に入らないんだ」

 侯爵が娘のアンジェリーヌにそう声をかける。その声にはややいら立ちが含まれているのがわかる。

 後妻に迎えたマノンは先妻の娘のアンジェリーヌと仲良くなろうと頑張ってくれていた。

 それなのに、母のことが忘れられないのか、後妻に迎えたことをいつまでも不貞腐れているのか、マノンを母と認めないかのように距離を置こうとする娘の意固地さに侯爵はいらだっていたのだ。

 頑張っているマノンにも申し訳なく思うし、もちろん娘のためにも家族として仲良くしてほしいと思っていた侯爵は、アンジェリーヌに言い聞かせないといけないと思っていた。

 だからマノンが不在の今日という機会に、アンジェリーヌと話をしておきたかったのだ。


 侯爵が日頃の態度を咎めたが、アンジェリーヌは少し頬をピンク色に染めながらどこかぼんやりとしていた。

 侯爵がしっかり返事をしないか、と叱ると、うつむいて小さな声で、ごめんなさいとアンジェリーヌは謝った。

「もっときちんと顔を見て返事をしなさい。言いたいことがあるなら言いなさい」

 その言葉に視線をあげたアンジェリーヌは、悲しそうな目で父を見た。

「それでお前はなぜマノン——お母様に迷惑ばかりかけているんだ。彼女はいつもお前の事を考えて悩んでいる。これからはマノンの言うことを聞きなさい、わかったな?」

 アンジェリーヌは父から視線を外し、テーブルに視線を落とすが何も答えなかった。

「アンジェリーヌ! 我儘もいい加減しなさい、いつまでも小さな子供ではないんだ。そうしていれば皆がちやほやしてくれると思っているのか? マノンも嘆いていた、わがまま放題で手におえないと……あまりひどいようなら修道院で反省させるぞ!」

 侯爵にしたら、何を言っても反応の乏しい娘へ苛立ちをぶつけてしまっただけだった。

 もうこれがアンジェリーヌとの最後の別れだとも知らずに。



「あ……アンジェリーヌ!」

 それまで黙っていたアンジェリーヌが突然立ち上がり、空を見つめて自分の名を叫ぶと涙を落とした。

「アンジェリーヌ? どうした?」

 アンジェリーヌの言動に驚いた侯爵はアンジェリーヌの様子をうかがう。


 アンジェリーヌは空を見つめ歯を食いしばり何かに耐えるようにしていたが、しばらくして何度か目をぱちぱちすると、周りを見渡し、自分の頬を両手で思いっきりはたき気合を入れた。

「よし!」

 そして父に向かって

「修道院といいました? 私より先に連れて行くべき人がいるんじゃないですか? お茶会など誘ってもらったことなどないので断ることなんてできませんし、話したこともほとんどないのに我儘って言われても。マノンでしたっけ? 嘘ばかりつく名ばかりの義理の母とそれを疑うこともない能天気な父親、二人はお似合いだと思いますけどね。そもそもおとなしくなったのはその女のせいですし。私が何か言っても無視するし、何をしても気に入らないと怒るし叩かれる。幼気な娘はこうなるしか身を守る方法がなかったのですよ。自分があんな女を連れてきたくせに私を責められても困ります」

 アンジェリーヌは一気に吐き出した。

 

「ど、どうしたのだ、アンジェリーヌ。大丈夫か? 何を言ってる?」

 侯爵は口ごたえさえしたことがない娘が大声で親に悪態をつくのに狼狽した様子で、自分を見下ろしているアンジェリーヌを見た。

「父上、このチョコレートに入っているお酒のせいではないでしょうか?」

 アベルが気付く。

「こんなわずかな酒で? アンジェリーヌ、母親に向かってあの女呼ばわりなどやめなさい。それにマノンが嘘つきだとか、大人しいのは彼女のせいなどおかしな言い訳は止めないか。酒のせいだとはいえ母親に対してひどすぎるぞ」

 侯爵は、叱りながらアンジェリーヌに座るように命じる。

 しかしアンジェリーヌは立ったまま、侯爵を見下ろし、

「底意地の悪い女の本性を見抜けなかったのか、継子をいじめる女だと承知で大事にしているのかは知らないけど、娘を娘とも思わないあなたに苦言を呈される覚えはない。あなたに取って私などお母様と一緒に死んでいればよかったのにと、思うくらいの邪魔な存在でしょうから」

 冷たい言葉を突き付ける。

「アンジェリーヌ!」

 父は大声をあげたがアンジェリーヌは、部屋を出て行った。


「……姉上の……押し殺していた本音でしょうか」

「どうなっているんだ、一体。義理の母に思うことはあるだろうが……それにしてもあまりにもひどすぎる。甘やかしすぎたか」

 それを聞いていたアベルが悲し気な顔で、

「ひどいのは姉上では……ありません。姉上の言ったことは本当です」

「どういうことだ?」

「母上は……姉上に折檻をしていました。」

「まさか! マノンはいつもアンジェリーヌを気にかけていたではないか!」

「仕事であまり家にいない父上は知らないでしょうけど、幼いころから姉上が楽しそうにしたり話をしようとすると遮ったり、叱ったり、無視をしたり……ひどいものでした。かげで……手もあげておりました」

 マノンは隠れてしていたようだが、アベルは何度かその場面を見てしまっていた。


「何⁉ なぜアンジェリーヌは私に言わない!」

「……母上が、『あの人はアンジェリーヌより私を選んだのよ』って、『あなたは見捨てられたのよ』っていつも言い聞かせていたので。余計なことを言うと追い出されるわよって……姉上は父上にも……頼ることは出来なかったと思います」


 それを聞いてハッと侯爵は思い出したことがあった。

 再婚してしばらくたったころ、マノンからアンジェリーヌとの関係で相談されたことがあった。

 アンジェリーヌがなかなか受け入れてくれないけれど、時間をかけて親子の絆を作るから心配しないで欲しいと。

 「私から暴力を受けたとか、いやなことを言われたとか嘘をつくかもしれないわ。それは、私が本当に甘えていい存在なのか試す行動だそうなの。だからあなたは見守るだけにしてね」と。

 だから、アンジェリーヌがマノンに叩かれた、ご飯を食べさせてもらえなかったと泣いて訴えてきた時も、

「そうか、わかった。でもお母さんだから厳しくするんだよ。お前の事を愛しているんだよ。」

と、アンジェリーヌの事を否定しないように気を付けながら、マノンの優しさも伝えたつもりだった。

 それからだんだん、アンジェリーヌは侯爵にも何も言わなくなってしまい、これまでの明るい性格とは打って変わって、あまり話さない大人しい娘になってしまった。


「……なんてことだ、あれは本当だったというのか! 私はなんてこと……お前はなぜ私に言ってくれなかった?」

 侯爵は自分のうかつさを棚に上げて、八つ当たり気味に息子を責めた。

「僕も小さかったですから。物心ついた時からそれが当たり前だったし……長い間疑問を抱かなかったのです。それに父上は母上を信用していたのでしょう? 何より姉上の様子を見て何も気が付かなかったんでしょう」

 その日々消えていく表情に、その助けを求める視線に、妻の服ほど買い換えてもらえていない服や艶を失っていく髪に。

 たった一人の味方になりえた父に見てもらうことも助けてもらうこともなかったアンジェリーヌはすべてをあきらめていたのだろう。

「……」

 前妻が亡くなってから知り合ったマノンは優しくて思いやりがあり、子供が好きだと言っていた。だから娘を任せられると思っていたし、実際上手くやっていると思っていた。

「……アンジェリーヌとゆっくり話をせねばならん」

 侯爵はアンジェリーヌの事を思い、自責の念に駆られたのだった。


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