116.決着
116
美術室の内部に展開されていた暗闇の膜が溶けていく。それはさながらチョコレートが手の熱によって溶けていくように。次第に緩やかに焦らすように。
膜が溶けると同時に炭酸が内に響くようなしゅわしゅわとした音が鳴った。ちらりと視線を向ければ床に落ちていた蝙蝠の死体が跡形もなく溶けていく音だった。他にも『犬』や『猿』や『蛇』や『蛙』が溶けていく。そうして黒の召喚獣達は静かに消えた。
さて。
僕は意図せずメリーモを左腕で抱きとめるような体勢になっていた。同時に右手に持ったナイフをメリーモの首筋に添わせていた。……けれど、もう、大丈夫だろう。僕はメリーモの表情を見て判断する。同時に左腕から伝わってくるメリーモ自身の実力を察知して判断する。
大体の力量差というものは見ただけで判断できる。そして接触してみれば容易に測れる。僕はS級勇者という称号には似合わないほどの実力しか持っていないが、しかしてメリーモはもっと下だ。単体であれば簡単に制圧できてしまうだろう。
ゆえに僕はゆっくりとメリーモを床に下ろした。同時にナイフをしまう。
メリーモは僕を見上げながらに言う。強く睨み付けながらに。
「私の言葉が理解できていないようですわね? かわいそうに。勝ち誇っているところを悪いけれど、あなたは敗北したのよ」
「……どう考えても、いや、どう見てもこの状況、僕の負けには思えないけどね」
「所詮は人間。魔人エイプリル様の叡智には及ばないようね?」
魔人、エイプリル。
サダレではない。エイプリルか。そうか。いや。どこか分かっていたような気がする。なぜなのかは分からないけれど。ただ今回の一連の流れというのはサダレらしくないと感じてはいたのだ。
そして勝ち誇っているメリーモに対して僕は思考を割かない。それはどうでもいい。重要なのは魔人エイプリルという名前だった。何者か? 分からない。ただ魔人。魔人だ。嘘偽りのない魔人だろう。
魔人は、複数いる。
僕は視線をメリーモに下ろす。勝ち気な表情には余裕が浮かんでいる。先ほどまで浮かべていた諦めの表情はブラフか? いや。……諦めは諦めだったのだろう。僕は読み取っていく。推理していく。諦めは真実の感情であり、実際的にメリーモは自分自身では僕に及ばないことを感じ取って諦念を抱いた。
けれど同時に、別の部分で勝っているところがある。過去に当てはめてみればよく分かる。たとえば知能を持った蜘蛛の魔族と対峙したときの思い出だ。蜘蛛自身は僕達【
まあ。
結果的に僕達は無数の蜘蛛の子供達を掃除して、勝ったのだけれど。
「叡智、ね」
「私の役目は既に終わっているのよ。私はエイプリル様が望む通りの結果を出した。ならば、それでいいの。たとえ、私個人が負けようとも……エイプリル様の目論見が達成されたならば! ふふ。あははははは!」
「僕の家族のこと?」
哄笑にかぶせるように僕は言った。
しかしメリーモは聞こえていないようだった。僕の言葉など耳に届かないかのように笑い続けていた。「あははははは!」と。高笑いという言葉がこれほどまでに適切な笑いというのは存在しないだろう。だから僕はもう一度言葉を飛ばす。ちゃんと今度はメリーモに届くように。
「僕の家族のことだろう?」
「はははははっ」
「僕の家族に近づく、屍人のことでしょ」
「……はは……は……」
「分かってるよ。全部」
メリーモはまだ笑う。「はは……」と感情のこもっていない笑いを口から発する。けれどそれはもはや笑いではない。先ほどまでの高笑いの尾を引いているだけに過ぎない。だから僕は沈黙した。ただ黙ってメリーモの表情を眺め続ける。
五秒ももたなかった。メリーモは片方の頬を引きつらせるよう痙攣させて、声を上げなくなる。それでもぴくぴくと口角は動いていた。ああ。もう完全に笑いではない。もう完全に笑ってはいない。
一拍を置いて僕は言う。
「家族だけじゃないね。僕の親しい人間にも、たとえばマミヤさんにも、近づいていたね。屍人」
「……」
「あれは君がやったのかな。それとも魔人エイプリルってやつか。まあ、どっちでもいいんだけど」
「……」
「ドラゴンって知ってる? いや、知らないか。どうだろう。あ。知っているかもしれないね。その魔人エイプリルの目的っていうのは僕だろう? となると僕についての下調べはしているはずだし、君がその配下のような立場だっていうなら、【
「……」
メリーモは答えない。ただ放心している。もしかすると見破られていないと思っていたのかもしれない。作戦はすべて順調だと感じていたのかもしれない。僕の家族を既に包囲して、さながら人質のように使えると感じていたのかもしれない。その未来を確信していたのかもしれない。
家族を人質に取られた僕は無抵抗になるだろう。その無抵抗な僕になにをするつもりだったのだろう? メリーモ自身は自分の敗北を悟っていた。となればエイプリルが出張ってくるような展開になっていたのだろうか。
悪趣味だな。性格は良くない。
僕は冷めた目線をメリーモに注ぐ。メリーモは焦点の定まっていない視線を虚空に向けていた。僕に向いているようでいてその瞳は僕を向いてはいなかった。……だから僕は待った。どうせ待つつもりだった。待っていればそのうちドラゴン以外の【
――やってきたならば?
ふいに鐘が鳴る。授業の開始か終わりか。僕には判断がつかない。それでもとにかく鐘がなる。やがてマナの波長が漂ってくる。それはどこからともなく、さながら臭気のように、気がつけばそこにある。
音。
学園放送だ。
『今年もあと数日に迫りました! 【リックン・マーシャル】の開催まであとすこし! 大会参加希望者は生徒会まで! 優勝賞品はなんと、学園長によるご褒美です! なんでもお願いしちゃいましょう!』
音が切れる。
途端にメリーモは言う。放送によって我に返ったのか。視線がちゃんと僕に向く。瞳の焦点が合う。
「どうして……」
「どうしてって、当たり前だ。僕はほら、言ってなかったと思うけど、というか言っているわけがないんだけど、アサシンによく狙われている立場だし」
アメとクモとの初対面を思い出す。公園で悪戯みたいに襲いかかってきた双子に対して……僕は平静だった。冷静だった。なぜならば慣れていたからだ。そうだ。勇者という立場にいるとアサシンの襲撃などなんとも思わなくなるのだ。そういうものなのだ。
それでも――警戒は最大限に。
「家族関係は対策をしているよ。対処法も確立している。まあ。いま僕はここから動けないから微妙なんだけど――代わりに、ドラゴンに頼んでいる」
スピカ達と合流した時点で外界との連絡手段は回復していた。ゆえに情報も入ってきていた。……僕の家の周りに屍人を徘徊していると。知能を持った屍人だ。まるで人間のような振る舞いをする屍人だ。当たり前のように行動して当たり前のように僕の家族に接触しようとしてくる。
「っ。言っておきますが屍人達は優秀で」
「優秀だろうとなんだろうと関係ないよ。ドラゴンに任せている。それだけなんだ」
そして。
ふいに美術室のカーテンが、窓が閉められているにも関わらず、孕むように膨らんで揺れた。もちろん風は吹いていない。
なぜか。目を吸い寄せられ――視界の先で、手紙が舞う。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます