115.決戦


   115



 僕は舌を弾いた。


 こちらに振り向くメリーモは……微笑んでいた。


 二度、口の中で舌打ちが鳴る。無意識だった。


 微笑んだメリーモの瞳の奥にあるのは不可思議な感情だった。すくなくとも僕にはそう思えた。敗北感とも違っていた。焦りとも違っていた。敵意でもなかった。かといって諦めでもなかった。不可思議だった。


 僕の脳裏に高速に流れていくのはいままでの経験だった。いままで対峙してきた凶悪な魔族達だった。ああそうだ。彼らを追い詰めたときには……もっと別の感情があった。もっと他の、僕だけではなく誰でも読み取れてしまうほどの露骨な焦りや敵意。あるいは諦めがあった。簡単に読み取れてしまう感情が。



「――来なさい」



 メリーモが、呟く。


 瞬間に降りるのは夜の帳だった。美術室の光が薄れ、闇が濃くなる。それは錯覚ではなかった。まるですべてのカーテンが閉ざされてしまったかのように――いや。美術室のさらに内側に、僕とメリーモだけを含む別空間が構成されるように。それは薄い膜によって作られている。形はドーム。


 そして。


 僕は目を瞑っている。メリーモの気配を敏感に感じ取りながら。その一挙手一投足を気配として捉えながら――同時に考える。たぶんこれは一対一になるだろうと。メリーモの微笑みの理由はこれか? いや。分からないが……とにかく他の人間の侵入する余地はなくなる。そういう気配がある。そういう気配を感じ取れてしまう直感がある。


 ラズリーもスピカもシラユキも、この空間には入れないだろう。


 メリーモの気配が動く。両腕をひろげた。同時に僕は目を開ける。瞼の裏側によって暗闇に慣らした瞳が――メリーモがやはり両腕を拡げていることを再認識させる。


 宙に顕現した黒の魔法陣が、回転する。


 そして僕は捉える。目でも耳でも気配でも皮膚でも空気の震えでも、捉える。無数の魔族の顕現を。さながら打ち上げ花火の終わりのような無数の残滓――無数の小さき夜の帝王――蝙蝠こうもりの出現を!


 強い羽ばたきが耳を打った!


 血の臭いが濃くなる。無数の羽ばたきが暗闇を縦横無尽に滑空して迫った。同時に僕が手を伸ばすのはサバイバルポーチ――取り出すのは銀の短剣ナイフ。息を鋭く吸った。頭を冴えさせる。動きは最小限に。急所は防いで。


 首筋を狙う蝙蝠を正確無比に切り裂いていく。頭上からの蝙蝠。正面からの蝙蝠。左右からの蝙蝠。背後からの蝙蝠。足下から迫る蝙蝠。急所を狙うものはすべて短剣で切り裂いていく。それでも腕を噛まれることがある。それでも足を噛まれることがある。脇腹を噛まれることがある。けれど、呻くこともしない。耐えられる。余裕で。


 ――ああ。これがラズリーであれば一瞬ですべてを灰燼かいじんと変えてしまえるのだろう。スピカであれば逆に召喚獣達を操ることも可能かもしれない。シラユキであれば謎の能力スキルにとって召喚獣達を自分に近づけさせないだろう。ドラゴンであれば一瞬でメリーモに肉薄するこが出来るはずだ。


 けれど僕に強大な力はないから、一歩一歩、自分の急所を守りながら、メリーモに近づいていくことしか出来ない。


 一歩、一歩、また一歩。時には蝙蝠達をさばききれずに二歩下がり、それでもまた一歩、一歩。距離を詰めていく。


 距離を……。



「――まだまだ」



 メリーモの呟き。さらに暗闇の気配が濃くなった。さらに魔法陣の回転が速まった。


 僕は足音を聞いている……。それは聞き慣れた足音だ。人間のものではない足音だ。舌を打つ。舌を打つ。また二回舌を打って僕は視認する。まるで泥濘からゆっくりと起き上がるようにしてこの閉ざされた空間に顕現していくのは――『犬』に『猿』。さらに足音を立てない『蛙』に『蛇』。


 メリーモは微笑みを深くした。


 僕も、微笑んだ。


 なるほど難儀だ。僕は小刻みにナイフを振りながら思う。蝙蝠達がどんどん床に積もっていく。まるで雪のように積もっていく。さらに足下から迫る召喚獣達に――僕は『鳥瞰ちょうかん』を発動させた。


 すべてを頭上から眺める。すべてを上から捉えて――一切の差異の存在しない同一の世界を頭の中に作り出す。そしてシミュレーションする。どうすれば蝙蝠達の攻撃から身を守れるのか。どうすれば召喚獣達を躱すことが可能なのか? 様々な世界線を頭の中に繰り広げ、展開し、繋げ合わせる。


 三歩下がった。


 蝙蝠達に塞がれる視界の隙間でメリーモがさらに笑うのが見えた。けれど、下がりは助走だ。いつもそうだ。下がるのは助走に過ぎないのだ。必ず、上がる。


 前のめりに迫っていた召喚獣達のタイミングがずれる。と同時に僕は左足を踏み込み、さらに軸のようにして右足を振る。それは蛇の細長い胴体にクリーンヒットし、しかし僕は細い肉体を弾かず、靴先で操るようにして、犬の首に巻き付けた。


 ナイフを突く。


 蝙蝠の肉体を串刺しにしたナイフを、勢いよく振り下ろす。蝙蝠の死体は猿の目に血液を粘着させ、さらに僕は猿の肉体を蹴り飛ばす。犬と蛇、さらに蛙を吹き飛ばすように。そして前進。前進。前進。


 メリーモの顔から微笑みが消える。


 そこから僕の歩いていく速度は変わらない。落ちない。着実に、確実に、堅実に、ゆっくりと。――確かに難儀だ。多種多様な召喚獣達の攻撃というのは避けるだけではどうしようもない。かつての【トトツーダンジョン】におけるスタンピードとは違う。確実にこちらに敵意を剥けている魔物達を相手にするのは骨が折れる。……それでも。


 それでも経験がないわけではないのだ。


 もちろん僕は【原初の家族ファースト・ファミリア】のみんなのように強いではない。たったひとりだけで戦況を変えられるほどの力を持っていない。ただ、それでも、修羅場は越えてきた。そうだ。この程度の修羅場をくぐり抜けてこなければ、そもそも僕はいまここで生きてはいないのだ。


 一歩。


 一歩。


 一歩。


 メリーモが後ずさる。僕は進む。メリーモがさらに退しりぞく。僕は進む。メリーモがまた足を引く。僕は進む。メリーモがとうとう暗闇の膜に背中をつける。僕は進む。僕は近づく。僕は肉薄する。蝙蝠の大群を切り裂いて。黒の召喚獣達を押しのけて。


 顔を近づけた。


 メリーモの表情に浮かぶのは、やっと、諦めだった。


 彼女は赤い唇を波立たせるようにして、言う。



「終わりなのかしら?」

「終わりだろうね」



 白い首筋に、ナイフを添わせた。

 それが終わりの合図だった。

 羽ばたきが遠ざかる。足音が消える。視界の端で暗闇が晴れていく。



「どちらにとっての終わりかしらね? S級勇者さん」

「……君の終わり以外に、答えはないと思うけど」

「本当に?」



 メリーモの表情が、変貌していく。


 諦めから、、微笑みへ。――同時に僕は合点がいく。ああ勝ち誇るような微笑みだったのか。こちらに振り向いたときのメリーモの表情というのは。勝ち誇るような。あまりにも場面と状況に似合わなすぎて理解できなかったけれど。なるほど。


 僕の妙な困惑と納得を前に、メリーモは言う。



「あなたの負けよ。!」



 ――もしも僕がひとりであったならば、僕は負けていただろうな。


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