114.メリーモ・チェルシー


   114



 メリーモ・チェルシーは己の肖像についてを振り返ることが出来ない。自分はいつ生まれたのか。自分を生んでくれた両親はどのような人物なのか。自分はどのような環境で育ってきたのだろうか? 分からない。なんとなく兄妹がいたような気がする。でも相貌は浮かばない。声も思い出せない。そもそも性別は? 分からない。分からない。分からない。


 分からなくても、構わない。


 たまに――本当にたまに――三ヶ月に一度くらいの頻度で不安な朝が来る。なにも考えたくない朝が来る。起き上がりたくない朝が来る。どうしてなのかは分からない。生活は順調だ。自分はなにも間違っていない。自分の望んだ通りに人生は進んでいる。それでも、怖い。太陽が怖い。朝の風が怖い。光が怖い。白いものが怖い。起き上がりたくない。ベッドから出たくない。頑張ろうとも思えない。そんな朝が来る。


 メリーモはいつも、目を瞑る。


 無理矢理に起き上がることはない。目を瞑って仰向けになったまま深く呼吸をする。ゆっくりと息を吸い込む。吐き出す。両手は組んだ状態でお腹の上にある。そうすると落ち着くのだ。でも落ち着くのは身体だけだ。思考は落ち着かない。不安はまだ存在を主張している。脳味噌は騒がしい。出来るならば落ち着けたい。ああ。落ち着かせる方法も知っている。


 メリーモは、呟くのだ。



「エイプリル様。エイプリル様。エイプリル様。エイプリル様。エイプリル様。エイプリル様」



 言葉に集中する。自分の心で呟かれる言葉に集中する。自分の頭で繰り返される言葉に集中する。いや。それだけではない。吐き出された言葉が宙に舞って自分の耳からまた自分の内面へと戻ってくる感覚に集中する。それはループであり輪廻でもある。永劫に続く信仰と信奉の繰り返しでもある。ああ。エイプリル様。エイプリル様。エイプリル様。エイプリル様。エイプリル様。


 親や兄妹や友人や恋人やその他諸々の人生のすべてで関わってきた他の人間達に対する興味や関心など一切ない! なにもかもを私は覚えていない! それでも覚えていることがある! ああ! 人の身などとうに外れてしまったのだろう! もはや人間とは呼べない肉体と精神をしているのだろう! それで構わない! 私は――私には――エイプリル様がいるのだから。


 どんなに憂鬱な朝でもエイプリル様を思えば太陽の眩しさが心を暖かくしてくれる。どんなに次の日を望まない夜だったとしてもエイプリル様を思えば月明かりの銀光が子守歌に変わる。


 愛。愛。愛。愛。


 盲目的な愛。


 出会いはいつだ――? 遙か昔だ――? 私はなにをしていた――? 森の片隅の古民家にいた。なぜ? 分からない。そんなことはどうでもいい。私はひとりだった。いや。他にも人がいただろうか? ああ。鉄錆の臭いがひどく充満していたような気もする。なぜだろう? 血か。鮮烈な、赤か。夕焼けよりも赤い、液体か。


 エイプリル様は私を見下ろしていた。血だまりにみっともなく尻餅をつく私を、まるで興味のない、それこそ馬車に轢かれて千切れながらも藻掻こうとする毛虫でも眺めるかのような視線で、捉えて、言った。



「おや。それなりに良い素材になりそうだ」



 ああ。当時に戻りたい。メリーモは思う。強く思う。当時の自分に戻ってちゃんとエイプリル様と対話がしたい。会話がしたい。ああ。なぜ当時の私はなにも答えなかったのだ? なぜ怯えていたのだ? エイプリル様は愛し、信仰し、信奉する対象としてこの上なく優れた方だというのにっ。戻りたい。戻って当時の自分を叱咤したい! そして当時の自分に代わって答えたい。エイプリル様に。



「ふむ。怖いですか。排泄器官が壊れている様子です。ただ、それすらもちょうどいい。どうせ汚れるのですから」



 それは――それは汚れた私をも受け入れてくれるということなのでしょうか。それは汚れて醜くなって価値のなくなった私をも受け入れてくださるということなのでしょうか。あまつさえちょうどいい――あまつさえ私を必要としてくださるということなのでしょうか? ああ。その通りなのよメリーモ。その通りにエイプリル様は私を必要とし、私を受け入れてくださるということなのよ。



「私と一緒に来なさい、人間」



 血だまりが音を立てる。にちゃり。にちゃり。赤い粘液がエイプリル様の靴底を汚す。歩調は早く、容赦はない。古民家の木造のドアが開かれ、皮肉なまでに清浄な緑の空気が流れてくる。むせかえるほどの鉄のにおいが濃くなり――メリーモは、立ち上がった。


 転がっている、、もう、気にもとめなかった。ただ、メリーモは生きなければならなかった。生きたかった。目の前を歩く得たいの知れない存在に付いていけば生きられると知っていた。だから当時のメリーモは。


 祈る。


 祈る。


 祈る。



「この像は、遙か昔、別世界における、の形をしています。祈りなさい。たてえ灰と化したとしても。灰と化すことが確定的であったとしても」



 愛を祈る。信仰を祈る。信奉を祈る。エイプリル様を祈る。心が不安に押しつぶされそうになったら祈る。そうだ。祈ればいい。祈れば。祈れば。祈れば。祈れば!


 すべてが失敗したことを、メリーモは、悟っていた。


 自分の背後で、ドアが開け放たれたことも、気がついていた。


 その気配の正体も、察していた。


 振り返りはしなかった。振り返ったところでどうにもならないことを理解していた。


 孤独な美術室は絵の具のにおいに染まっている。



「君が、黒幕なんだね? メリーモ」



 掛かる声は意外にも穏やかだった。冷静だった。しかしそれがメリーモからしてみれば無気味でもあった。普通はもうすこし怒気が滲むものではないのか? ……いや。普通ではないからこそS級勇者という称号を得ているのだろうか。


 ――エイプリル様からの指令は一つだ。「サブローを殺せ」。それは失敗した。精霊の呪いを使って攪乱するというのは悪い手ではないと思ったのだけれど。けれどバレてしまえば脆弱か。悟られてしまえば一直線に自分自身へと繋がってしまうか。ああ。結果的には悪手だったのだろうか? すべて。


 しかし。


 メリーモはゆっくりと、緩慢な動作で、胸の前で組んでいる両手をほどいた。それからゆっくりと膝を持ち上げ、身体を起こし、立ち上がる。視界がすこしだけくらむのは、自らの終わりを悟っているからだろうか。


 メリーモは振り返る。


 ――S級勇者サブローは、すこしだけ息を切らしていた。すこしだけ髪の毛を乱していた。けれど、それだけだった。ああ。メリーモと対峙した上でその実力というのを正確に捉えているに違いない。エイプリル様から忠告は受けている。


 サブローの目は、異様に発達していると。



「僕のお願いは一つだけだ。君が掛けた呪いのすべてを、解呪してほしい。呪い手である君なら、出来るはずだ」



 言葉にはまっすぐな芯が立っていた。


 威圧的な雰囲気は感じない。それでも自然と後ずさってしまいたくなるほどの鋭い気配がある。それは修羅場をくぐってきた者特有の雰囲気でもあった。ああ。メリーモは何度でも思う。敵わないと。絶対に勝つことの出来ない相手だと。


 本来であれば。


 現時点であれば。



 そして、メリーモはやわらかく微笑んだ。



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