110.サブロー・スピカ


   110



「さて」



 と。


 聞こえるはずのない声が豪雨の公園に呟かれた。しかしレインドルは気がつくことが出来なかった。その「さて」という言葉はやはり雨に溶けていた。雨粒はレインドルとナイリーを強く打ちたたいていた。その耳朶を小刻みにドラミングするかのように叩き続けていた。さらに屍人達の空虚な肉体の内部に反響させるかのように、雨は楯突たてつくように降り注ぎ続けていた。


 だから、レインドルの耳には、入らない。


 ……いや。


 気がついていた――気がつかないふりをしていた。錯覚であると錯覚していた。なぜならば聞こえるはずのない言葉だから。聞こえるはずのない声だから。そもそもここは秘密の部屋だ。【王立リムリラ魔術学園】という秘匿性の高い場所の、さらに立ち入る者の限られている司書室という場所の、さらにレインドルとナイリーしか知らない、空間魔術によって作られた擬似的な部屋なのだ。秘密の部屋なのだ……!


 誰にも立ち入られるはずがないのだっ!



「ありがとう、。……うん。結局のところ、やっぱり僕ひとりでは、出来ることには限界があるね」

「そんなことないよ。ほら。サブローくんは、ゼロを一にする。その一を百に変えるのが、私達の仕事みたいなところがあるもん」

「うーん。苦し紛れのフォローだ!」

「苦し紛れじゃないよ!」



 声が聞こえる。もう無視できないほどに……。もう錯覚ではないと理解できる。そこに――振り返ればきっと入り口に立っている。ひとり。いや。ふたり。……スピカ。スピカ? レインドルは混乱を起こしそうになる頭で考える。スピカ。それは……警戒しろと言われていた【原初の家族ファースト・ファミリア】のパーティーメンバーの名前ではないか? そして、サブローくん。サブロー。


 S級勇者サブロー。


 振り返りたくない。振り返りたくない。振り返りたくない……っ。計画は順調だった。サブローはなにも感づいていないはずだった。なにも気がついていないはずだった。アメとクモに関してもメリーモ様の好手によって使い物にならなくしたはずだった。レインドルの情報はなにも漏らさないようにしていたはずだった……。



「まあ、とりあえず。スピカ」

「うん」

「まず、あの子から」

「うん」

「あとは……まあ」

「うん」



 背後で交わされる平然とした言葉のやりとり。


 そして――強烈な悪寒がレインドルを襲った! それはまさに巨大な氷柱つららに脊椎を貫かれるような悪寒であり衝撃だった! 全身の筋肉が硬直して身体の制御が利かなくなる。だが――状況は一変する。


 まず、暴雨がやんだ。やむはずのない暴雨がやんだ。レインドルが作り出した空間――レインドルにコントロールされているはずの空間の制御権が奪われ、雨が弱まり消失し、空が晴れ渡っていく。さらに――視界の先で雨に濡れるばかりだったナイリーがゆっくりと身体を動かしている。拘束の魔術を発動しているはずなのに! ナイリーは自分の身体に起きた変化に戸惑うように上半身を置き直し、それでも自分が動ける状態にあると認識した途端、一気に立ち上がって駆け出した。


 レインドルを置き去りにし、その背後へ。


 背後に立っているであろう、S級勇者と、その仲間のもとへ。


 足下で弾けた水たまりの飛沫が、レインドルの靴を濡らした。


 ああ。


 さらに屍人達――視界を埋めつくさんばかりに土中から這い出してきた屍人達が、灰燼と化していく。それはまさに脆弱な吸血鬼の末路にも近い。弱りに弱った吸血鬼が直接的な日光のエネルギーに抗えず、灰燼と化して死を迎える姿にも近い。


 熱い――。


 自分に降り注ぐ陽射しを浴びながらにレインドルは思った。鬱陶しいくらいに熱い。痛いほどに熱い。日光。ああ。なぜだろう? しかし、なぜなのだろう。メリーモ様と出会い、エイプリル様を知ったあの日から続く長い期間、長い時間、気がつけば日光を鬱陶しいと感じるようになっていた。日光を煩わしいと感じるようになっていた。


 その感覚が薄れ、いまはどこか、穏やかだ。


 肉体の緊張が解ける。


 ――メリーモ様。エイプリル様。


 レインドルは胸の裏側で祈るように思う。二人の名前を思う。しかしレインドルには同時に分かってもいる。二人は自分など駒の一つにしか思っていないということを。あくまでもそこには絶対的な差があるということを。それでも、それでも構わないとしかしレインドルは思った。


 振り返る。


 立っているのは――警戒しろと告げられていたS級勇者サブローと、その仲間である精霊使いと思しきスピカという名の女。さらにサブローに縋るように震えながら立っている、教え子であったはずのナイリーだった。……ナイリーの目線はしかし、明確に怯え、レインドルを恐怖の対象として見つめていた。


 終わりの気配が、自分の脳味噌に渦巻いた。



「なぜ」



 そして声は、絞り出すようにレインドルの口から漏れる。喉の奥から、まるで砂利に揉まれるようにしてずたぼろになりながら、言葉は、出る。



「なぜ、ここが?」



 終わりの気配。


 終わりの予兆。


 自分はここで終わる。ここで死ぬ。いや。ここで死ななければならない。秘密は秘密のままで。秘匿は秘匿のままで。大丈夫。まだナイリーはなにも知らない。まだナイリーは自分の正体を知らない。レインドルから繋がる、メリーモ様やエイプリル様へと繋がってはない。だから大丈夫。ここで終われば大丈夫。ここで死ねば大丈夫。そうだ。ならばいい。ならばいいじゃないか! レインドルの頭は人間味を失った解決を生み出す。人間の心がまた失われていく。しかしそれに気がつくことは――いや。たとえ気がついたとしても。


 そこに立つ唯一の男――サブロー。


 不思議だった。S級勇者という肩書きには見合わないほどにサブローという男は平凡に思えた。凄みがまるで窺えない。まるで直接的に対峙したならばレインドルでも互角に戦えてしまうのではないかというほどにオーラというものがない。ああ。それはしかしメリーモ様から伝えられていた情報と同じだった。能ある鷹は爪を隠すということわざの通りだろうか?


 やがて平凡な男は答える。なんでもないような様子で。



「滅茶苦茶にしてやろうと思って、ね」

「……なに?」

「僕、よく勘違いされるんだよね。まあ、勘違いされる分には構わないんだけど……」



 ……勘違いされるだろう。レインドルは頷くように思える。それはしかし気配が悪い。弱そうな気配が悪いのだ。弱いと勘違いされるのも当然だ。頷ける。


 しかしサブローの紡ぐ言葉はレインドルの思量しりょうからはすこし外れていた。



「ほら、怒るの苦手だからさ、僕」

「ドラゴンくんにはよく怒ってるけどね」

「違う違う。あれは叱ってるんだ。怒ってはないよ」

「……?」

「要は、怒らない人っていう風に勘違いされてるんだよ、僕」



 後頭部を掻くようにしながらサブローは言った。困ったような、どこか柔和な表情で。まるで親しい人間と会話をするかのような、自然な声音で。


 サブローは、続ける。



「さて。――洗いざらい全部、吐き出してもらうからね」



 瞳に宿る炎を、そこではじめてレインドルは認識した。





  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る