109.「さて」
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レインドルは、ナイリーという少女のことを、よく理解していた。
当然だった。ナイリーという少女は常に毅然とした振る舞いを見せているが、しかし心が特別に頑丈な作りをしているわけではないのだ。むしろ、脆い。弱い部類だろう。そしてだからこそ常に毅然と振る舞っているのだ。弱い心だからこそ強そうに振る舞うことによって均衡を保っているのだ。
それをレインドルは知っていた。よく知っていた。
なぜなら、ナイリーにとっての良き相談役だったから。ナイリーは常日頃からレインドルを頼っていた。事あるごとにレインドルに泣き言を漏らしていた。それをレインドルは聞いていた。ずっとずっと聞いていた。ゆえにナイリーの内面など手に取るように分かっていた。
そして。
だから。
「孤独は嫌だろう、ナイリー。味方が誰もいない。仲間が誰もいない。友達がひとりとして存在しない。そんな現実は嫌だろう。頼れる相手がいないなんて、あまりにも辛すぎる。大丈夫。私は分かっているよ。私は理解している」
分かっていない。理解していない。レインドルは語りながらに自分の言葉を否定する。分かるはずもないし理解するはずもない。なぜならばレインドルは人の心を捨てているから。既に悪魔に心を売っているから。
それでも哀愁を滲ませて本当に心の底から
もうずっと長いことレインドルはナイリーと接していたのだ。ナイリーの弱さを受け止めていたのだ。そしてさも当然かのようにアドバイスをしていた。生きる上でのアドバイスを。ナイリーの味方のふりをしながら……。いくら心がなくとも情は湧くものだ。それこそ飼育用の魔物にも似ているだろう。愛玩動物として交配を重ねて原型を崩しきったスライムの種類をレインドルは知っている。そんなスライムに向ける情と、なに一つとして代わりはしない。それでも情は情だ。情は情なのだ。
ああ。
だからこそ、分かってしまう。
「ナイリー。分かっている。君の心はよく分かっているさ。君は人間だ。君は心の優しい人間だ。人を傷つけることなんて考えられないだろう? 分かるさ。ましてや
甘やかすように言う。まるで僧侶が説法するときのように言う。ナイリーを見下ろしながら言う。そうしながら笑えてくる自分に気がつく。……なぜ笑えてくるのか。状況と言葉がマッチしていないからか? それもあるだろう。だがそれ以上に。
分かっているのだ。分かってしまうのだ。ナイリーの回答というものを。……あんぜだろう? なぜ分かるのだろう。既に人の身を外れているというのに。既に心なんていうものは悪魔に染め上げられているというのに。……でも、分かるものは分かるのだ。
まだレインドルも、人間の欠片を抱いてはいるのだ。
「私と一緒の道を歩みなさい、ナイリー。首を縦に振るんだ。それだけでいいんだ。そうすれば、酷いことをする必要もなくなる。私は酷いことを君にしたくはない。出来るならば君の意思で、私と一緒の道を歩むことを決断してほしい。ああ。もちろん不安はあるだろう。それでも、首を縦に振るだけで……君は仲間を手に入れられる。君を理解してくれる私の仲間が君を歓迎してくれる。なにせ……君は天才だ! 君は天才なんだよ、ナイリー。闇魔術の天才だ。きっと君は重宝されるだろう。もしかすると私以上に……ああ。それでいい。私以上に評価を受けなさい。私以上の立場になりなさい。もちろん、私は君の一番の理解者のままだよ。――首を、縦に、振るだけで」
やんでいたはずの風がまた強くなる。
レインドルの感情に呼応して強くなる。
レインドルの言葉に嘘はなかった。レインドルは自分自身で理解していた。いまのは嘘偽りのない、それこそ忘れかけていた人間としての言葉だと。有り体にいえばレインドルは同情しているのだ。可哀想な孤独な少女であるナイリーに、同情を抱いているのだ。だから優しくしているのだ。だから優しくしようという気になれるのだ。それは人間の心以外のなにものでもない。
それでも。
「ナイリー」
答えは分かりきっている。
「……ナイリー」
名を呼ぶ言葉に、落胆が滲む。
「君は……」
最後に抱いていた人間の欠片が、また、失われていく。
「君は、本当に」
言葉に詰まる。続きの言葉はある。それが出てこない。いや。その言葉を掛ける前にレインドルは時間を計測している。いまから屍人を用いてナイリーの心を折るまでにどれだけの時間が掛かるだろう? 残念ながらかつて――かつて銀髪の少女二人を調教したときのような時間を歪める魔術は使えない。というより、あれはもとより悪魔教の幹部であるメリーモ様から特別に託された魔術なのだ。
アメとクモ。
良い手駒になると思っていた。悪魔教には敵が多い。ゆえにレインドルは闇ギルドと連携しているところがあった。そして闇ギルドの連中で才能ある者を自身のボディガードのようにして……いや。過去を振り返るのはやめにしよう。
「君は、本当に、愚かだ」
そしてレインドルは空を仰いだ。――快晴。だがマナを練り上げ指を鳴らす。乾いた音が響き、宙に魔法陣を顕現させれば空は――まるでキャンバスに灰色を塗りたくったかのように雲を増殖させた。同時に魔法陣が次第に輪郭を膨らませていく。
再び、指を鳴らした。
稲光が走る。
気がつけば曇天は色を暗くしていた。たった十数秒。それだけの時間しか経っていないというのに青空は消えた。公園をすっぽりと覆うのは曇天の抱擁だった。そして稲光の刺激だった。
そして、雨が、降り出す。
土が濡れていく。乾いて固かった土が。濡れて黒ずんで柔らかくなって……まるで簡単に掘り起こせてしまいそうに。いや。逆か。まるで簡単に掘り進めて地上に這い出てしまえるほどに。ああ。レインドルはこれからなにが起こるのかを知っていた。もう何度も何度も使った手口だからこそ知っていた。そして目的に達する成功率は百に至っていた。
人の心を壊すというのは、存外に、簡単なのだ。
ナイリーが濡れる。土砂降りにも近い雨に目を細めている。ああ。それで構わないとレインドルのひとかけらが言う。直視することは耐えがたいだろう。出来るならばこれから起こるすべてから逃げていてほしい。現実から逃避していてほしい。……いや。
現実から逃避してしまうと、心は壊れないのか。
であるならば、現実を直視してもらうほかないか。
「君はこれから、屍人に壊される」
雨の中で語る。ああ。この豪雨に紛れてもしかすると声は消えているかもしれない。それはそれで構わない。レインドルは語る。語りながらに魔法陣を光り輝かせる! 魔法陣は緩やかに回転していた。それは永続的な効果の発動を意味していた。
やがて、土が、盛り上がる。
至るところの土が盛り上がり、そして、白い手が、地上に露出する。
「君の心が壊されるまで、この永劫の檻は閉ざされたままになる」
幾つも幾つも幾つも幾つも――。
濡れ、柔らかくなった土中から手が伸び上がり、地表を掴み、身体を持ち上げていく――。ぼこぼこぼこぼこと。まるで気泡が水中に顔を出すかのように。
魔法陣の回転が、終わる。
魔法陣が、消失する。
後に残るのは、腐敗臭を発する、無数の灰色。
無数の、屍人。
「生まれ変わって、また会おう。ナイリー」
「さて」
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