108.愚かで可愛い私の生徒


   108



 なにもかもは順調だ。レインドルは無力化した目の前の少女を見下ろしながら思った。


 少女――名前はなんだったか? 思い出そうとしなければ思い出せない。意識しなければ思い出すことが出来ない。そうだ。ナイリーだ。もう長い付き合いになる。ナイリーが【王立リムリラ魔術学園】に入学したとき――ではなく、その以前から。


 その以前からレインドルはナイリーを知っていたのだ。


 悪魔教の幹部である――メリーモ様から聞いて。


 公園にはまた激しく風が吹いていた。風の流れや強さはランダムだった。しかしレインドルのマナにある程度は共鳴しているところもあった。


 草がなびく。


 花のにおいが運ばれてくる。


 のどかな光景だった。平和を象徴するような光景だった。ああ。レインドルにとってはこの上ないくらいに最適なシチュエーションでもあった。これからなにが起きるのか。これからナイリーという少女がどのように汚れてしまうのか。そして、どのようにして心を壊してしまうのか! 想像するだけで心臓が高鳴る。血流が勢いを増す。唾液が奥歯から思い切り分泌された。ああ。



「ナイリー。君は愚かだ。愚かにも程があるよ」



 しかし内にたかぶる興奮とは裏腹に声音は優しく、寂しげだった。


 。ゆえにその肉体と精神は既に人間を外れている。日が経つごとに人間ではなくなってしまっている。もうレインドルは自分の両親の名を思い出せなかった。自分の人生に、確かに存在していたはずの兄弟の名や姿や声も忘れてしまっていた。伴侶に友人、その他自分と関わりのあったはずのすべての人間を忘却してしまっていた。


 いま唯一人間として覚えているのは――ナイリーただひとりだけなのだ。悪魔に魂を売ってからいまのいままでで、頻繁にやりとりをしているのはナイリーだけなのだ。きちんと接しているのはナイリーだけなのだ。


 まあ。


 それもまた『悪魔教にとって必要だから』という域を出ない。エイプリル様の――直接的にはメリーモ様からのお達しなのだ。



『レインドル。ナイリーという生徒に接触しなさい。彼女は優秀な闇魔術の使い手になりますわ。天才なのよ。ゆえに、まず退路を断ち――あなた以外のすべてが敵に回るように、わたくしが動きますわ。というより、既に呪いの種は植えたのですけれど』



 接触。


 レインドルは思う。メリーモ様は、《肉体的接触によって呪いを植え付ける》》ことが出来る。重要なのは右手だった。そしてメリーモ様と対峙する上で気をつけなければならないのはだった。……そうだ。誰しも自然とおこなってしまう握手という行為。これがいけない。触れられるだけでも危険だというのに……ああ。


 すべては後天的に手に入れた能力だとメリーモ様は語っていた。そうだ。メリーモ様も人間ではないのだ。人間の身ではないからこそ獲得した能力――これは俗に、なのだ。


 メリーモ様の暗躍は完璧だった。それにナイリーという生徒は元々の性質からして人付き合いが得意なタイプではなかった。ゆえにナイリーが気がつかないうちにナイリーの周りでは彼女を非難するような傾向が強まっていた。彼女を疎ましく思う傾向が深くなりつつあった。それでもナイリーは気がついていないようだったが……。


 同時期にレインドルはナイリーと接触した。


 さらに同タイミングでメリーモ様の呪いがはな開く。


 そうなればあとは終わりだ。



「私の言うことにおとなしく従っていればよかったのに。ああ。本当に、本当に愚かでかわいい私の生徒だった。ナイリー。……出来ることならば、君の心を壊してしまいたくはないのに」



 いつくしむようにレインドルは言った。その言葉に嘘はなかった。その言葉に演技はなかった。本当にレインドルは哀れな心で――馬車に轢かれた猫の死骸を眺めるような気持ちで言っていた。なんて可哀想なんだと。なんて哀れなんだと。


 ナイリーが涙を流しながら図書室で魔術本を散らかしている姿を見たときには心が躍った。魔術が一切使えなくなってしまったとレインドルに縋ってきたときには本当に、心の底から愛というものを理解したような気になった。ああ、なんて可愛いのだろう? なんて可愛くて愚かなのだろう。いや。愚かだからこそ可愛いのか。それはペットにも通じているかもしれない。愚かゆえに、可愛い。


 ナイリーの味方はレインドルしかいなかった。


 ならばあとはもう、レインドルの思うがままにナイリーは動いた。


 レインドルはそそのかし、誘導するだけでよかった。


 魔術という絶対的な信仰の対象を失ってしまったナイリーは勝手に崩れていく。勝手に自分を追い詰めていく。やがてはレインドルがそそのかす必要もなくなる。誘導する必要もなくなる。すべては勝手に、勝手に、勝手に、勝手に、勝手に。


 レインドルは無力化したナイリーを見下ろし、その頬に手を伸ばした。


 身をよじるナイリーはやはり可愛らしく、レインドルは陶器のような頬を指先で撫でる。


 ナイリーを制圧するのは簡単だった。しかも背中を取っていたのだ。であるならば赤子の腕を捻るような……いや。もはやそれは熱波によって溶けかかっているスライムにとどめを刺すほどに楽な作業だった。拘束の魔術によって手足の自由を封じればいいのだから。


 ごろりと、公園の草原に転がるナイリーは、しかしまだ生意気なことに目から光を失っていなかった。自分の感情を持っていた。自分の心を持っていた。自分の意思というものをまだ持っているようだった。ゆえに逃げようとしていた。


 ああ。


 可哀想に。



「ナイリー。これは私の慈悲だ。君に酷いことをしたくはないんだ。だから、もう一度だけ、最後に、質問をさせてくれないか」



 言葉は喋らせない。


 ただ、首を縦に振るのか横に振るのか。


 レインドルは頬を撫でながらに言葉を紡ぐ。紳士のように。



「君には才能がある。君は闇魔術の天才だ。だから」



 ナイリーの目は先ほどから熱を発していた。熱い涙をとめどなく溢れさせていた。もしも口封じの魔術を解けば嗚咽が漏れていたことだろう。


 優秀だ。やはり優秀なのだ。レインドルは改めて思う。ここで泣ける、ということはすべての状況を把握しているということでもある。レインドルが味方ではなく敵であったということをナイリーは把握しているのだ。すべての優しさが嘘であったことを把握しているのだ。だから泣いているのだ。ああ。なんて可愛いのだろうか。なんて可愛くて聡くていじらしい子なのだろうか?


 目元の涙を、レインドルはぬぐう。


 そして、言う。



「だからナイリー。私と一緒に、道を歩んでほしい。闇魔術の天才として、私と一緒に――悪魔に、魂を売ってくれないか?」



 レインドルはさらに呟く。



「『安らかに眠れレスト・イン・ピース』」



 それは――誰も使いこなすことの出来ない禁忌の魔術。下手をすれば自分の命を奪ってしまう恐ろしい魔術。レインドルにはもちろん使えない。あのメリーモ様でさえ使えない。いや。恐ろしい悪魔であるエイプリル様にさえ使うことは出来ないのだ。


 しかし、ナイリーは違う。


 ナイリーという、まさに悪魔に身を売るために生まれたであろう存在は――使いこなせるだけの資質と才能を持っているのだ。先天的に、獲得しているのだ。


 レインドルは、囁く。



「――人間を、滅ぼそう。私と、一緒に」



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