105.天秤


   105



 天才になりたかった。才能がほしかった。でも天才ではなかった。才能もなかった。だから早々に諦めた。諦めて平凡な努力の延長線を延ばしていくことに勤しんだ。そうだ。


 元々の性質からして割り切ることは得意だった。これまでの人生、いつもなにかを割り切っていたような気がする。周りからはどう思われていただろう? 真面目だと思われていただろうか。謙虚だと思われていただろうか。聡いと思われていただろうか。素直だと思われていただろうか。良い子だと思われていただろうか。あるいは都合が良い人間であると、打算的な思惑の中に組み込まれたりもしていただろうか。


 ナイリーは、レインドルに対し、言葉を返すことが出来ない。


 異空間に作られているはずの公園に、砂埃が立つ。風が吹いている。先ほどからずっと。ずっと髪を乱すほどの風が吹いている。ナイリーの髪の毛先が揺れる。レインドルの白髪も揺れ動く。


 しかし公園の中央に置かれた高い位置のブックスタンドは一切の震えを見せていなかった。固定された魔術本――禍々しい気配を放つも、開かれたページを鋼鉄のような確かさで風から守り続けていた。



安らかに眠れレスト・イン・ピース』。



 レインドルの囁いた言葉は間違いなく詠唱だった。そして――その詠唱がどんな現象をもたらすのかをナイリーは容易に想像が出来た。まるでレインドルの頭の中を直接的に見てしまったかのように想像が出来た。なぜか……?


 才能があるからだ。


 闇魔術の、才能が。


 それはいままでに経験したことのない察知だった。炎の魔術でも氷の魔術でも雷の魔術であっても経験したことのない察知だった。それは当たり前だった。他の魔術系統に才能など持っていないのだから。……なんの因果だろうか。どうして闇魔術なのだろうか。どうしてよりにもよって闇魔術に――いや。才能があると分かっただけ喜ぶべきだろうか? 両手を天に伸ばすべきだろうか。伸ばした手を拳に変えるべきだろうか。


 たとえ世間から受け入れられない魔術の系統だったとしても、才能があるだけ……。



「ナイリー。君ならばきっと、闇魔術の麒麟児になれるよ」



 レインドルの目元は優しげだった。優しい皺が目尻に刻まれていた。それは悪意のない笑みだった。心の底からナイリーをおもんばかっている表情だった。すくなくともナイリーにはそう思えた。


 心に降り積もった泥濘が攪拌かくはんされていく。どうしようもなく言い表すことの出来ない沈殿物が心の水を汚していく。……天才になりたかった。才能がほしかった。その感情を捨て去って割り切っていままでを生きてきた。周りからは……ああ。周りは関係ない。自分自身はどうだろう? どうだっただろう。


 本当に欲望を捨てきることなんて、出来はしないのだ。


 人間なのだから。


 レインドルの言葉は、拒絶すべきなのだろう。


 ナイリーの理性は、ちゃんと理解している。


 拒絶すべきだ。


 知っている。分かっている。理解している。レインドルの詠唱した言葉は……いまブックスタンドで開かれているページはきっとの領域だ。人を殺すための魔術だ。人の命を簡単に奪えてしまうほどの魔術だ。赤子でも分かる。


 禁忌の闇魔術だ。


 ああ――風が吹く。髪の毛先が揺れる。心の弱い部分が剥がれ落ちていく。拒絶すべきなのに言葉が出てこない。ずっとずっと、生まれてからずっと欲していた才能という光り物に惹かれてしまう。


 そしてレインドルは言う。まるでナイリーの弱さを理解しているかのように。



「来なさい、ナイリー。安心して。難しいことは一つもない。私の言う通りに詠唱し、マナを練り上げ――魔術を発動させればいい。対象はこちらで用意しよう」



 手招きされる。ナイリーは動かない。動けない。まだ迷いがある。まだ葛藤がある。まだちゃんと自分の理性が働いている。やはりよくない事だと理解している。やはり乗るべきではない提案だと理解している。それでも……それでも拒絶もなければ逃走もない。ただ立ち止まっている。天秤の上で立ち止まったままでいる。どちらを傾けるべきなのかを……判断できない。


 レインドルが近づく。そっと腕を伸ばしてくる。その軌跡を眺めることしか出来ない。レインドルの手はナイリーの腕を掴む。強くはない。しかして弱くもない。「あ」とナイリーの喉から言葉が漏れる。その一秒後にはレインドルはナイリーを引き連れるようにして歩き出す。公園の中央へ。


 足がもつれた。けれど転ばなかった。すこしバランスを崩しながらに――ブックスタンドの前でレインドルの手が離れていく。ナイリーはひとりになる。ひとりではないのに、まるでこの世界にひとりだけ残されたかのような気持ちになってしまう。



「勇気を出して」



 レインドルの囁くような言葉は風に乗ってナイリーの耳に届く。聞き心地のよい声となって。



「本に、目線を下ろしなさい」



 優しい声音だ。けれど命令するような口調だ。それがいまのナイリーにとってはありがたい。自分の意思なく命令されるのは楽だ。自分で考える必要もなく命令されるというのは楽だ。誰かの判断に従って行動を起こすというのは楽だ。そして楽なのは、ありがたい。



「心で、読んで」



 描かれているのは文字ではなく難解な線である。線で描かれた奇妙な連なりである。ああ。その作業というのは抽象画を閲覧して感想を抱くような作業にも近い。魔術でありながらに、芸術か。しかし難しいのは正解が定まっていることだった。正解に辿り着かなければ魔術本から魔術を吸収することは出来ず――いつもナイリーは多大なる時間と労力を費やして普遍的な魔術を習得していた。


 けれど、闇魔術は、分かる。


 一目で、理解できてしまう。


 ああやはり――やはり殺しの魔術だ! 禁忌の魔術だ! 命を奪うための魔術だ! 触れてはならない魔術だ! 学んではならない魔術だ! 習得してはならない魔術だ! 認識すると同時に心が騒ぐ。臆病に折れかける。そして実際にナイリーは後ずさる。一歩。二歩。そして背中にどんとなにかがぶつかる。


 レインドルが、ナイリーの身体を受け止めて微笑んだ。



「さあ、ナイリー。君の念願の夢が叶うよ」

「……レインドル先生」

「ああ」

「私……は」

「ああ」

「私は、べつに……」

「いけないよ、ナイリー」

「私は、確かに」



 ――確かに天才になりたい。確かに才能を持ちたい。闇魔術であったとしてもそれは嬉しい。魔術には変わりがないからだ。それでも……それでも踏み越えてはならない一線というものも存在しているのではないだろうか。というものは存在しているのではないだろうか?


 ゆえにナイリーは言う。強く。恩師に向かって。



「この魔術は……覚えられません」



 恩師が――そのときレインドルが見せた表情というのは悲しいものだった。寂しいものだった。形の良い眉が垂れていく。それはまるで――それはまるで哀れな下等生物が自ら毒の沼に浸かっていくのを見送るような表情にも近い。


 そして、ふいに、ナイリーは遠くに感じた。


 レインドルという存在を、恩師を、遠くに。



「ナイリー。……君は、才能がある。天才なんだ。だからわざわざ退路も断ち、味方が誰もいないという環境を作った。その私の努力を……無下にするのかい?」

「……レインドル、先生?」

「面倒なんだよ。屍人を使うというのは。――エイプリル様に許可を取らなければならないから」

「なにを」

「心を壊すのにも、時間が掛かるというのに」



 得たいのしれない怖気おぞけが、ナイリーの皮膚を逆立てた。



 そして、風が、やむ。


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