104.安らかに眠れ
104
白さは、清潔と安全の象徴に思えた。
その
ああ。ナイリーにはたくさんの言葉があった。たくさんの吐き出してしまいたい感情というものが存在していた。それでも言葉や感情というものは不思議なものだった。形はないのに渋滞を起こす。実体を持っていないのに喉奥で詰まってしまう。
結局、ナイリーの口から言葉は出なかった。
それでもレインドルはすべてを察しているようだった。いや。それは当然なのかもしれない。ナイリーの現状を見れば誰もが察して気がつくかもしれない。しかして気がついた上で手を差し伸べるかはまた別問題だが……。
優しい微笑みを浮かべたまま、レインドルは膝を折ってナイリーの視線と高さを合わせる。そして言う。老いて血色の薄くなった唇を開いて。
「なにも言わなくて構わない。苦しいことは口に出さなくていい。立ち上がれるかい。ナイリー」
「…………はい」
たっぷり二秒。二秒の空白があってナイリーは言う。そして言葉を口に出した瞬間に詰まりが取れる。渋滞が終わる。同時にへたっていた足腰に力というものが湧いてくる。ナイリーは震えながらも立ち上がる。レインドルから差しのばされた手を掴みながらに立ち上がる。
残骸と化してしまった魔術本を手に取って。
「では、話をしようか」
「はい」
握られた手は自然と引かれていく。レインドルの手は年輪を刻むようにかさついていた。まだ若いナイリーの手にとってその硬い皺はすこしくすぐったいものだった。それでも手を握っているうちにそれは気にならなくなる。お互いの体温によって皮膚の摩擦は溶け合っていく。ナイリーはレインドルの手が好きだった。
こちらを
人の気配の存在しない廊下を進む。先ほどまで
入るのは図書室の隣にある司書室だった。中は古びた本の匂いに満ちていた。狭い室内には誰もいない。それでもその場所が最終的な地点でないことをナイリーは知っていた。レインドルは司書室の奥にある本棚に手を伸ばす。そしてマナを――鮮やかな蒼の奔流を本棚に流し込んで、そして秘密の扉は開かれた。
本棚がひとりでに動き出す。まるで扉のように右端を支点としてゆっくりと回転していく。その奥にあるのは暗いトンネルだった。高位の魔術によってねじ曲げられている空間だ。トンネルの果てには光が覗く。
トンネルに足音は響かない。歩いているという感触にも乏しい。前を歩くレインドルの姿がなければナイリーは不安に襲われていたことだろう。
やがてレインドルは光を目指しながらに言う。
「私と会っていない間、なにか変わったことはあったかい」
「……ええと」
言葉に詰まるのはサブローという存在についてだった。同時に双子……いや。そもそも図書館であの三人に出会ってから歯車は狂いだしたような気がする。そしてつい最近の出来事……吸血鬼の存在。ああ。あれは夢ではなかったのか。あれは現実だったのか。なんだかすべてが遠い出来事のようにも感じられる。
というかそもそもサブローは何者なのだろう?
今更ながらにナイリーは思った。いや。どうしていままで自分はそのことを思考の外に置いていたのだろうか。どこか気にならなかった。どこか正体について詮索する気が起きなかった。……まるで気配遮断の魔術を掛けられているかのように。そして思う。魔術を掛けられているという線はないのだろうか?
「ナイリーくん?」
反応のないナイリーを心配するようにレインドルが振り向いた。それでナイリーはようやく我に返ったかのように口を開ける。言葉を考える。すべてを説明することは難しい。だからナイリーは一つだけを話す。
「あの。呪われているって」
「……呪われている?」
「私、呪われているらしくて」
「そうなのかい?」
「あ、はい」
「なるほど。呪いか。ふむ」
と。
相づちを打つレインドルの反応はどこか素っ気なかった。そしてレインドルは止めていた足を動かしてまた歩き出す。光に向かって。……光は近い。光の先にあるのは公園だった。作られた公園だ。何度かレインドルに連れられて足を運んでいたからこそ分かる。公園……そして思い出すのは練習した黒魔術だった。他の魔術が使えなくなってからずっと黒魔術を練習していたのだ。公園で。
「それはどうして判明したんだい?」
「どうして、ですか?」
「呪いがあると、どうして判明したんだい」
「あ。えっと。……知り合いの方に指摘されて」
「なるほど。知り合いか」
「はい」
「
「はい?」
レインドルの口から呟かれた言葉を理解することは出来なかった。
光を抜ける。
途端に感じるのは風だった。風の音だった。トンネルという狭い空間を抜けたからこその開放感があった。そして目の前に広がるのは整備された空き地にも似ている公園だ。ベンチが一台。ブランコが一台。たったそれだけのこぢんまりとした空間。
『――黒魔術という、ただでさえ暗い魔術を勉強するんだ。せめて場所くらいは明るくないとね』
過去にレインドルが語った言葉を思い出す。
公園の中央には教壇のような人工物があった。それは高い位置のブックスタンドだった。いつもあそこに立って黒魔術の練習をするのだ。黒魔術の本をブックスタンドに立てかけて。
既に本は挟まっていた。
今日、学ぶべき本は。
「ナイリーくん」
「はい」
「君には才能がある」
「……ありますかね」
「私が保証しよう。君には黒魔術の才能がある。これはとても希有な才能だ。他のすべてを犠牲にしてでも、特化させるべき才能だ」
風が、強まる。
胸が騒ぐのは、なぜか。
「今日は、私の教えられる、すべてを君に伝授しよう」
髪が、激しく、はためいた。
レインドルは両腕を広げて、言う。
「『
それは――命を奪う魔術。
「天才になりなさい、ナイリー」
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