103.絶望


   103



 一体どこで、私はなにを、間違えたんだろう?


 ナイリーは思った。自分はどこで間違えたのだろう。どこで道を踏み外したのだろう。どこから歯車が狂ってしまったのだろう。……いや。あるいは元々間違えていたのかもしれない。元々道を踏み外していたのかもしれない。元々歯車は狂っていたのかもしれない。そもそもの段階として私は間違えていたのかもしれない。なにもかもを。


 ぐしょ濡れになった魔術本は廊下の床で踏みしだかれてただの残骸と化していた。もはや読むことは出来なかった。拾うことすらも出来なかった。すこしでも力が加われば薄い紙のページが簡単に壊れてしまいそうだった。


 心の底から湧き上がってくるのは……どうしようもない徒労感に他ならない。怒りも悲しみもなかった。もちろん憎しみもない。感情は一つだ。ただひたすらの徒労感であり、それは無力感とも置き換えられる。ああ。冷静にナイリーは自分の心を見つめる。



「……あの落ちこぼれ、まだいたのかよ」

「さっさと消えればいいのに。人に迷惑しか掛けないんだから」

「ここに在学している意味がないだろ……」

「聞いたか? つい最近も図書室で暴れたらしいぜ」

「本当に存在価値がないな」



 いじめはエスカレートしていた。


 発端はどこだ? ナイリーは魔術本を乾燥させるために風をイメージしながらマナを練り上げ魔術を展開しようとして――使えないことに気がつく。そうだ。魔術を使えなくなったところが発端だった。どれくらい前だ? もうかなり前のことになる。切っ掛けはなんだ? 黒魔術に手を出してしまったことだろうか。


 嘲るような笑いと、見捨てるような呆れの吐息が周囲からは聞こえてくる。


 閉ざされた意識を開放するつもりはなかった。殻にこもった自分という存在を周囲にさらけ出すつもりもなかった。それでも顔を上げてしまうと自然と見えてしまう。周囲……置き去りにされていく自分。


 廊下に立ちすくんで残骸となった魔術本を見下ろす自分と、その自分を迷惑そうに見ながら追い抜いて陰口を叩きながら去って行く天才達。



「もう魔術師としては終わりだろ、こいつ」

「魔術が使えない魔術師なんていてたまるかよ」

「さっさと諦めて退学すればいいのに」



 ああ。


 まさに自分の人生の縮図じゃないだろうか? 魔術師としての才能がない自分は、まるで地を這うナメクジにも等しいではないか。そのナメクジな自分を、軽々と追い抜いていく彼らはなんだ? 遠ざかっていく彼ら彼女らの背中はなんだ? 遠い。手を伸ばしても決して届かないと思わされてしまうほどには、遠い。


 それでもこれまでは立ち上がってきた。これまでは立ち上がれてきたのだ。何度でも何度でも……孤独に、ずっと、研鑽をし続け、立ち上がってきた。


 重い腰を下ろす。下ろした瞬間にずん! と頭が重くなった気がする。膝を曲げる。油の刺さっていない甲冑のように膝は軋む。魔術本の残骸に視点を合わせる。手を伸ばす……伸ばそうとする。けれど伸びていかない。……頭に浮かぶ。


 拾ってどうするの?


 もう使えなくなった残骸を拾ってどうするの? 残骸を拾ったあとに自分はどうする? そもそも残骸は言葉の通りに残骸なのだ。自分にとってはすべてが残骸なのだ。すべてが灰色なのだ。すべてに色などないのだ。なぜなら……自分は魔術を使えないから。


 魔術を使えない。


 手を伸ばそうとする。手を伸ばそうとする。手を伸ばそうとする。色のついていない残骸に。なんの役にも立たない残骸に。けれど手が伸びない。授業の時間が近づく。足音はどんどんと自分を追い抜いていく。「なにしてんだこいつ」「邪魔くさい」「迷惑だな本当に」「どけろよ……」。言葉は聞き流したい。でも聞き流せない。聞き流せるほどの胆力も持っていない。そもそも……そもそも初めてだから。


 いままでも孤独だった。


 けれど疎まれたことはなかった。


 いままでも凡人だった。


 けれど魔術を使えなくなったことはない。


 すべてが初めてで――ナイリーは回想するようにして束の間の栄光を懐かしむ。【王立リムリラ魔術学園】に合格した日のことを思い出す。あのときの喜びを思い出す。思い出して、後悔する。なぜならすべてが逆転したから。もう【王立リムリラ魔術学園】というのは憧れの場所ではないのだ。ナイリーにとっては。


 ナイリーにとっては、地獄と化していた。


 ――魔術が好きだった。魔術というものが好きだった。才能はなかった。凡人だった。それでも魔術が好きなのだ。体内に流れるマナを感じるのが好きなのだ。空気中に浮かんでいるマナを肌で感じるのが好きなのだ。マナを操って魔術を発動させる瞬間が好きなのだ。魔法陣を顕現させるという行為そのものが好きなのだ。魔法陣が光り輝いて脳内にイメージしていたものが現実に顕現される。その瞬間が好きなのだ。魔術が好きなのだ!


 好きなものは、もう、私には、扱えない。


 鐘が鳴った。


 気がつけば周囲に人はいなくなっていた。


 誰も自分に手を差しのばすことはなかった。


 もちろんそれを期待しているわけではなかった。


 それでも誰かに手を差し伸べられたならば、私は立ち上がったかもしれない。


 あるいは。


 いや。


 夢物語かもしれないけれど。


 伸ばそうとした手は気がつけば胸の前で組まれている。それはまるで女神様に祈るかのように――ああ。それでも女神様はもう力を失ってしまったのだったか。百二十年前と同じか。魔神と呼ばれる存在が復活したのか。復活して世界を混沌に落とそうとしているのか。青空には常に黒点があるのか。


 ――思う。この世界なんて、壊してくれと。

 ――思ってしまう。もう人類なんて、滅亡してしまえと。


 よくない思考であることは理解している。それでも正常な思考とはなんだろう? 私の思考はそんなにも間違っているのだろうか? 私は間違っているのだろうか? もちろん他者からすれば間違っているのかもしれない。他人からしてみれば私が間違っているのかもしれない。「あいつがおかしい」と誰からも指をさされていることを私は知っている。


 それでも、じゃあ、私をこんなにも追い詰める存在はどうなのだ? 私をこんなにも追い詰めて苦しめる存在は? きっと周囲からはよく思われているのだろう。周囲からは、すくなくとも私以上に評価はされているのだろう。存在価値があると思われているのだろう。正常だと思われているのだろう! なにが正常だ! 馬鹿馬鹿しい!


 そもそも――いじめは陰湿だった。姿。それどころか取り巻きのような存在がいるようにも思えなかった。もちろん敵は多い。自分を嫌う者は多い。悪口や陰口など慣れたものだ。それでも実際に――たとえば目の前の残骸のように、姿


 ああ。


 苦しくなる。苦しくなる。苦しくなる! 胸が苦しくなる。すべてを吐き出してしまいたくなる。なにもかもを叫んでしまいたくなる。頭が痛い! 呼吸が苦しい! 胃の底からなにかがせり上がってくる感覚もある。どうしようもない感情が涙によって消化されそうになる。でも、それすらも、耐える。


 一度でも吐き出してしまえば、一度でも叫んでしまえば、一度でも涙を流してしまえば、もう二度と自分は元の自分に帰れないという予感がある。その恐ろしい予感に逆らうようにナイリーは歯を食いしばる。うめき声を上げる。うう。ううう。うぅううううっ。


 ――足音が、聞こえた。


 背後だった。授業ははじまっている。生徒ではないだろう。教師か。あるいは学園内職員か。どちらにせよ情けない姿を見せ続けるわけにはいかない。立ち上がらなければならない。それでも立ち上がれない。膝関節がもう二度と動いてくれない。頭が重すぎる。腰も同様だ。ああ。情けない。情けない。情けない……。



「ナイリー」



 声は明瞭だった。


 明瞭であり優し気だった。


 優し気かつ暖かかった。


 ナイリーの知っている声だった。


 だからナイリーは気落ちするのではなく安心したように笑みを浮かべた。そして渾身の気力を振り絞って振り返る。そこに立つ人物を認める。――力が湧いてくるような気がした。そしてナイリーは縋るようにその人の名前を呼ぶ。



「レインドル先生!」




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