100.瞬間、鳥肌が


   100



 時間の経過は曖昧だった。ただ自分とアメ。ふたりだけがこの世界に存在しているような気がしていた。外界はすべて意識から閉ざされている。それはまるで黒の召喚獣に襲われているときの感覚にも近かった。それでも自分自身の感じ方は違っていた。いまは閉ざされているのが心地よかった。自分とアメのふたりだけの殻に閉じこもっているのが安心できた。誰にも邪魔をされたくはなかった。誰にも……。


 ドアが開かれる。


 認識した瞬間に心が恐慌状態に陥る。入ってくる人間を視認する。――誰だ! 凍えるほどに立ち上る殺気は、しかし同時に薄まる。そこに立つのはサブローだった。いつもの通りに自然な表情をしているサブローだった。平然とした立ち姿のサブローだった。


 時間の経過は曖昧である。それでも既に何度も陽が昇って落ちてを繰り返していることは理解していた。その間にサブローと吸血鬼は何度も何度も何度も何度もアメとクモの部屋に入ってきていた。


 未だに自分でご飯を食べようとする気力すら湧かなかった。排泄すらもどうでもよかった。ひたすらに無気力だった。それでも唯一の感情が沸き起こるとするならばそれはサブローを前にしての敵愾心だった。殺意だった。しかしそれすらもいまは薄れつつあった。それが良いことなのかは分からない。もしかすると悪いことなのかもしれない。


 アメは眠り続けている。もうずっと眠り続けている。それがクモにしてみれば羨ましいとも思う。自分も眠り続けることが出来たなら……いや。


 部屋に入ってくるサブローを見てクモは思う。


 自分は眠るわけにはいかないのだと。自分も逃げてしまうわけにはいかないのだと。


 サブローの足音が部屋に立つ。恐る恐るクモは顔を上げる。サブローを見上げる。……やはり沸き立つような敵愾心も嫌悪感も殺意も薄れている。湧いてはこない。それでも条件反射的にクモは魔術を発動させている。何度も何度も何度も何度もこの数日間で繰り返した魔術を。同時にナイフも握っている。


 しかしてサブローは微笑むのみだ。サブローの身体はまったく傷ついていない。それはサブローが回避に長けているからだった。ああ。恐らくサブローでなければ無傷はありえない。いや。無傷どころか命を何十回と奪っていたことだろう。


 サブローが近づいてかおるのは香ばしい油の匂いだった。それは食べ物の匂いだった。この数日間での丁寧な介抱によってクモとアメはどちらも固形物を食べるだけの食欲を獲得していた。固形物を消化するだけの体力も獲得していた。



「アメはまだ眠ってるね。僕が行ったら起こして食べさせるといいよ。……クモはもう自分で食べられるだろう?」



 地べたに座り込むクモにサブローは言う。相変わらずの優しい声音で。


 クモは反応できない。しかし心の中では頷いている。心の中では肯定の言葉を発している。……それでもトラウマとして刻まれた脳味噌の防御反応は自然と『攻撃』の命令を発していた。ゆえにクモは力なく握ったナイフを持ち上げて……。


 持ち上げて。


 持ち上げて。


 持ち上げて。


 ――単純な接触の繰り返しによる心の緩和。それはまるで心を壊した冒険者のリハビリにも似ている。たとえば意地悪なインプやデビルによってトラウマを植え付けられる冒険者というのは少なくない。また冒険者ではなく一般市民であっても対象となることはある。またインプやデビルではなくとも――それこそ悪鬼に襲われて自分ひとりだけが助かるシチュエーションなど。


 心を壊してしまう者は少なくない。


 その心はどうすれば癒やされるのか? もちろん元々の心が強い者は自らで立ち上がることが出来るだろう。それでも心の弱いものは――リハビリするしかないのだ。それはまずは立ち上がることから始まる。冒険者であるならば冒険に旅立つための準備をする段階から始まる。そしてトラウマを植え付けられたのが森ならば森へ。山ならば山へ。洞窟なら洞窟へ。ダンジョンならダンジョンへ。


 とにかく立ち向かうしかないのだ。自分のトラウマの場所へと。


 そして最初は遠目から見る。自分にトラウマを与えた存在を。魔物を。インプであったりデビルであったり悪鬼を。次第にその距離を近づけている。やがては認識される距離へと。やがては自分の得物の届く範囲へと。ゆっくりゆっくり時間を掛けて。


 気の遠くなるような時間をかけて――接触していくしかないのだ。


 接触。


 持ち上げたナイフの行く先はない。鋭い切っ先はサブローを向いている。それでも鋭い先端が振るわれることはない。同時に発動しかけていた魔術も消失している。マナを扱う気も湧かない。いや。


 そもそも分かっているのだ。理解しているのだ。サブローを攻撃する意味はないと。サブローに敵愾心を向ける正当性などないのだと。理由など一つとして存在しないのだと。


 あくまでも……あくまでもっ。――ああ思い出す! 思い出したくないのに思い出してしまいそうになる! 思い出すのが止められない! あの日を! あの地獄を! 延々に続くかと思われた凌辱の日々を! 自らの尊厳を破壊したあの男をっ! あの男のをっ!


 吐く。


 以前に食べて消化された内容物が思い切り吐き出されてサブローの持ってきたトレイを汚す。サブローの持ってきた美味しそうな食事の数々を汚す。それでも俯いたままクモは胃液と胆汁と唾液を吐き出す。消化された食べ物のぶつぶつを吐き出す。


 吐き出して……涙が。涙が止まらなくなる。それはなぜなのか。嘔吐による自然現象なのか? 自然の摂理としての涙なのか。違うのか。しゃくりあげる。涙が止まらない。



「大丈夫大丈夫。中途半端は気持ち悪いでしょ。ちゃんと吐き出しなね。大丈夫だから。ね?」

「っ。うっ。ふぐっ。うううっ。うっ」

「大丈夫。大丈夫だよ。ご飯はちゃんと持ってくるから。ね? お腹が空くでしょ。あ。飲み物も持ってくるね。いやいや。忘れてたよ飲み物を」

「うぅっ。ふぐっ。ぐっ。ううううううっ」

「大丈夫だから。ね?」



 サブローがさらに近くに寄る。サブローの足が躊躇なくクモの吐き出した内容物を踏む。汚いのに。汚いはずなのに。……いや。サブローは思っていないのか? 汚いとは。思っていないのだろうか?


 サブローの手がクモに伸びる。


 クモは反射的に――反射的に! 反射的にナイフを振ろうとする! ナイフをっ。でも振らない! 振りたくない! クモは思う。クモは思っている。クモはずっと思っている。振りたくはないのだ! 振りたくない! 傷つけたくない! 憎みたくもない! 恨みたくもない! サブローは……サブローは。


 サブローは、味方だ。


 サブローは、仲間だ。


 サブローの手が、クモの背中に触れる。クモの背中を優しく撫でる。「大丈夫。大丈夫だから。ね」。声が聞こえる。安心できる声が。穏やかな声が。なによりも……からかい甲斐のあると思っていた声が。



「うっ。うううっ。ぅうううううううううっっっ!」

「大丈夫。大丈夫だから。ね」



 涙が止まらない。涙が止まらない。涙が止まらない。自分は一体なにをしているんだろう。自分はどうしてこんなに弱くなってしまったのだろう。どうして……。どうして。いや。分かっている。呪いだ。呪いによって蓋が開けられたから。ああ。


 ――


 隠すつもりはなくとも結果的には隠していた。結果的にはサブローに伝えていなかった。伝えるべきだったのに。ああ。


 クモは、言う。しゃくり上げながらに。


 やっと――、伝えられる。



「にぃ…………にぃ、ちゃ。……兄ちゃん」

「……うん。大丈夫だよ。どうかした?」

「……ごめっ。……ごめん」

「いいよ。いいんだよ」

「ごめん……兄ちゃんっ。うち……うちら」

「うん。大丈夫」

「……レ……ル」

「うん。ゆっくりでいい。ゆっくりでいいよ」

「……レイン、ドル」

「……うん」

「ふっ。……ぐっ。うっ。ぅぅううっ。うっ」



 背中をさすられる。何度も何度もやさしくさすられる。だから……だから言える。クモは言える。だからこそ言える。


 伝えるべき言葉を。



「レインドル、なんだ」



 膨らんだ涙で歪む視界に、サブローの表情が滲んで見える。



「レインドルが――うちらをっ」



 サブローの表情は、分からない。



を使って、あいつが! あいつなんだっ!」



 サブローの表情は……。


 背中をさする手が止まった。サブローの表情は窺えなかった。それでも静かに気配が変貌していくのは分かった。……無へと。


 ――無の感情へと。


 瞬間、クモの全身に自然と鳥肌が立った。


 それでも一瞬だった。


 やがてサブローは言う。またいつもの優しげな口調で。



「勇気を出してくれてありがとう。……後は大丈夫。大丈夫だよ」

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