99.受け入れてくれたから
99
名もなき元奴隷――クモという名を与えられた銀髪の少女は理解していた。ちゃんと理解していた。頭でも心でも理解していた。……自分たちを壊したのはあくまでもあの白髪の男なのだと。自分たちを地獄の底に叩き落としてなおも吸い殻を靴底で踏みしだくように壊してきたのは――あの白髪の男なのだと。
名を――思い出そうとすると強烈な吐き気に襲われる! そして実際にクモは吐いた。しかし吐けなかった。胃の中にはなにも存在していない。しかしそれでも唾液だけが延々とあふれ出てくる。胃液すらも空だ。胆汁すらも出てはこない。唾液だけ。唾液だけが床に――ああ。
クモはやっとそこで認識する。自分たちの場所を。ずっと暗闇の中にいると思っていた。ずっと暗闇の檻の中に閉じ込められていると思っていた。現実ではなく悪夢の世界に閉じ込められ続けていると思っていた。けれど違った。自分がいるのは……寮の部屋。カミーリンと名乗った【王立リムリラ魔術学園】の学園長に用意された部屋の中だ。ああ。
隣には温もりがある。アメがいる。しかしアメはずっと眠っている。眠り続けている。それは吸血鬼――ララウェイと名乗った、自分たちに世話を焼いてくれる魔族にすると「呪いではなく自己防衛」らしい。精神の自己防衛としてアメは眠り続けているらしい。
思い返せば――思い返したくないのに思い返してみれば昔からそうだった。心を壊されたときからそうだった。アメはよく眠っていた。心のない操り人形として、同時にアサシンとして活動しているときから眠る子だった。いままで思い出さないようにしていた時代のことが脳裏に甦る。人を殺し続けてきた感触が手のひらの感触の甦る。鉄錆の悪臭が鼻孔にこびりついているっ。
胃が痙攣する。
舌がひくつく。
涙があふれた。
それでもなにも吐き出せなかった。ただ盛大な
それでも制御できない。嘔吐きながらにアメは思い出に恐怖する。涙を流しながらにアメは過去に縛られる。思い出したくなかった。思い出してはいけなかった。その記憶の蓋が開けられてしまった。――呪い。
吸血鬼は怯えるアメとクモに懇切丁寧に説明してくれた。いまの自分たちの恐慌状態の原因は「呪い」が原因であると。「呪い」によって封印していた過去を思い出してしまっているのだと。だから狂いそうになっているのだと。
しかしアメからしてみればどうでもよかった。呪いであろうと呪いでなかろうともどうでもよかった。いまはなにも考えたくなかった。無になりたかった。頭を破壊してしまいたかった。……自傷行動に移りそうになる一線を引き留めているのはアメの存在だ。アメにこれ以上の苦しみを与えたくはなかった。自分が楽になりたいからといってアメにこれ以上の苦痛を与えるわけには……ああ。
でもアメはどうだろう? ……ふと思う。アメも同じことを考えているんじゃないのか? アメもまたこの現実から逃げ出すための手段の一つとして同じことを。自分と同じことを考えてなおもまだ現実に囚われているのではないだろうか?
だとするならば。
線は頭蓋骨の隙間を通って脳の中枢に痺れを与えた。
甘美な痺れを。
――死にたい。
「入るよ」
脳裏に浮かんだ意思は一瞬で飛んだ。それは部屋のドアをノックされたから――ではなく声だった。声に反応して意思も想像もなにもかもが吹き飛んで――震えるっ。
――入ってこないで!
男の声だった。聞き慣れた男の声だった。この二週間ほどで仲を深めたはずの男の声だった。まったく無害で優しい男の声だった。信頼できるはずの男の声だった! 普通であれば迎え入れていいはずの男の声だった! サブローの声だった! けれど。
けれど震えてしまうのは、どうしてか。
恐怖してしまうのは、どうしてなのか。
わけも分からず感情が揺れ、押し、引き、飛沫が立つ。そして返答のない中でドアがゆっくりと開かれている。瞬間。
瞬間にクモのとった行動は懐のナイフを抜くことだった。
ドアが完全に開けられる。無防備なサブローの姿が視界に映る。――殺せ! もはやそれは自分の意思なのかどうかすら分からない。――死ね! ただ脳裏の奥底。中枢に刻まれた、男という生物への圧倒的忌避感と憎悪と、なにより忘れたいアサシンとしての習性がクモの腕を振らせていた。
銀色のナイフがサブローの胸に突き立つ。
寸前に、サブローは軽く身体を横にして銀色を躱していた。その背後で壁にナイフの刺さった硬い音が立つ。
「調子はどうかな。……あんまり良くはなさそうだね。まあ大丈夫大丈夫。僕に任せてくれよな。これでも僕は介抱には自信があるんだぜ。ほら。よく酔っ払った【
言葉の途中にクモは静かに詠唱している。暗殺の魔術を。――殺していいのか? 殺すべきなのか? そんなわけがない! 分かっている。分かっているのに小さな詠唱は続き……アサシンとして培った技術は気配もなくサブローの背後の魔法陣を完成させている。
「ああ。まあ、大丈夫大丈夫」
サブローの言葉に合わせて魔法陣は光り輝く。そして発生するのは灰色の槍だった。真正面から見れば細すぎて可視化できないほどの――さながら針にも似た槍だった。
「僕は」
サブローがどこからともなくタオルを取り出す。自分の吐き出した唾液を拭くためのタオルを。そして顔が下を向く。完全な無防備。――ごめん。――ごめん? ――ごめん。クモの胸中でやはり飛沫が立つ。激しく感情が波打つ。それでも発生した魔術は止まらない。
勢いよく射出された灰色のスピアは――しかしサブローには当たらない。
まったくもって自然にサブローは回避している。
「僕は避けるのがうまい。これが良いことなのか情けないことなのかは曖昧だけどね」
そしてサブローは曖昧に微笑む。本当に自分の特技を情けないことと認識しているかのように困ったように微笑む。……殺そうとした。確実に。それでも安心している自分がいる。当たり前だ。殺したくなんてないのだ。危害なんて加えたくないのだ。
それでも。
――全身を這う指紋の感触を思い出すと同時にクモはまた吐き出している。当初は泣き喚いてすべてを拒絶していたアメが次第に感情を失っていき
吐き出しながらに魔術のナイフを振っているっ!
サブローを殺すためにナイフを振る。サブローを近づけないためにナイフを振る。サブローに同じ思いをさせたいがためにナイフを振る。でもサブローは当たらない。避け続ける。平然と避けて、そして床を汚すクモの体液をすべて拭く。綺麗さっぱりに。
すぐにクモの息は切れた。ナイフを持ち上げる気力すらもなくなった。それはまともに栄養を
――そのときクモの浮かべていた表情は、鬼の形相でありながらも、哀しかった。
やがて立ち上がったサブローはクモの敵意には一切触れずに、自然に言う。
「また来るよ。今度は、ご飯の時間に」
来るな!
来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るな来るなッ!
同時にクモの心で揺り戻しのように逆転の感情が生まれる。
――怖いよ、兄ちゃん。
そうだ……兄ちゃんだ。兄のようなのだ。兄のような存在になっていたのだ。まだ二週間程度しか生活を共にしていないのに。いや。それでも二週間は長いのだ。すくなくともクモやアメにとっては長いものだったのだ。自分たち以外に信頼できる人間がいるとは思っていなかった。いや。そもそも最初から信頼していたわけではない。最初から信頼していたわけではないのだ。
それでも……そうだ。
受け入れてくれたから。
闇ギルドを抜けたアサシン。
勇者とは対をなす存在。
本来であれば拒絶されてしかるべき存在の自分たちを受けいれてくれた。
だから……。
「ゆっくりでいいんだ。ゆっくりで。……ゆっくり、前に進んでいこう。ね」
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