89.呪い


   89



 メリーモという名前のオレンジ髪の女子生徒はすこしだけ思案するように顎に手を添わせた。なにかを考えているのは傾げられた小首を見れば明白だった。


 やがてメリーモは言う。



「とりあえず詳しく見てみないことにはなんとも言わないですわ。ところで医務室には顔を出しましたこと?」

「医務室? いや……。そっか。医務室もあるのか。ダメだね。頭が回ってない」

「ひどい顔をしていらっしゃいますもの。一度はお手洗いで顔を洗ってきたらどうです? その間はわたくしが見ておきますわよ」

「ありがとう」



 ふたりと離れてはいけない。という制約はあれどさすがにトイレくらいは問題がない。というのはこの五日間で確認済みだった。ゆえに僕は素直にメリーモの言葉に甘える。そしてふたりを抱えたままトイレの手前まで移動して、そこで僕は紐を外した。


 ふたりを廊下に横たわらせる。僕のサバイバルポーチとメリーモの鞄が枕だった。


 トイレの鏡に映っている自分の顔は衰弱していた。憔悴しょうすいしていた。そういえばひげの処理など僕はしていなかったのだろうか? ここまで頬がこけてしまうほどに食事を取っていなかったか? こんなにも肌が乾いてしまうほど水分を摂取していなかったのか? 恐ろしく疲れ切った表情をしているが……ここまで僕は疲れているのか?


 違和感。


 もちろん僕はしばらく満足には眠っていない。どこか顔色が悪くなってしまうのは当然だろう。表情全体に暗い影が差してしまうのも頷ける。しかし……しかしこれはあまりにもやつれすぎてはいないだろうか?


 僕は自分の顔に手を這わせる。鏡に映っている視覚的情報が触覚的情報と合致していることを確かめる。……幻ではない。僕は鏡に映っている通りに顔を窶れさせている。くたびれた顔つきをしている。頬もこけているのだ。無精髭も酷い具合に伸びているのだ。


 なぜ?


 睡眠不足。それは理解している。けれど他に理由が見当たらない。……鈍い速度で頭を回転させていく。理由。理由。理由。――すくなくとも自覚的理由は見当たらない。僕は判断する。判断しながら水を出して顔を洗っていく……。


 また顔を上げると表情にはすこしだけ生気が戻っている。


 ……綺麗な水によって生気が戻る。これは勘違いではない。一時的な錯覚でもない。確かに僕自身に僅かながらに力が戻っていくのを感じる。さらに……これまでの冒険によって培われた経験が直感を呼び覚ます。ある種の正解を僕の手のひらに掴ませてくれる。


 ――呪い。


 呪いではないか? でなければ説明がつかないのではないか? 思考する。けれど思考するまでもなく透明な正解の玉を僕は掴んでいる。飲み込んでいる。……ただの睡眠不足でここまで僕が衰弱することはない。ここまで弱るはずがない。ここまで身だしなみに無頓着かつ無自覚になるはずがない。僕は弱いけれど修羅場を乗り越えてきた自覚はあるのだ。つまり気がつかないうちに……僕の肉体と精神は蝕まれていたのだ。


 呪いに。


 そして僕はその場で服を脱いだ。パンツだけを残して裸になる。もちろん別に変質者になったわけではない。僕の予想が正しいのであれば――くまなく全身を点検した果てに僕は見つける。背中の右側。見ようとしなければ絶対に見られない部分。


 


 ……いつだ? 誰だ? どのタイミングだ? 考えられるのは初日か? 怪しいのは黒魔術による召喚獣か? いや。まず考えるべきは手段だ。どのようにして僕は呪われた? そしてこれはアメとクモにも刻印されているのではないか? だからこそアメとクモは眠り続けているのではないか? ……呪いの手段は? か。


 何年も前に交わしたスピカとの会話を思い出す。



『サブローくん。精霊さんはね、癒やしと呪いをつかさどる存在なんだよ。だからね、精霊さんが住んでいそうなところでは悪いことをしちゃいけないの。精霊さんは見ているから……。悪いことをしたら、呪われちゃうよ?』



 悪いことを僕はしただろうか?


 というのは的外れな考えだ。スピカが言っていたのは喩えるならば野生の精霊である。そして今回のようなパターンで考えるならば……人間と契約している精霊か。人間の指示によって誰かを癒やしたり呪ったりする精霊。それこそスピカと同じ立場の精霊使いが……僕を呪った?


 僕とアメとクモを呪った。


 僕は一つの仮説を真実と置換しながらまた顔を洗う。さらにサバイバルポーチから布を取り出して水に浸し全身を拭く。それは清めの儀式と同じだった。もちろん正式なものではないから効果は少ない。それでも僅かながらに冴えというのは戻っていく。


 服を着ていく。


 呪いを解くためには――手っ取り早いのは呪い手と接触することだ。直接的に呪い手に呪いを止めてもらうことが手っ取り早い。もちろん他にも方法はある。別の精霊使いと接触して解呪してもらうこと。また軽い呪いであれば時間の経過によって勝手に解呪されることもある。……ただ。


 トイレを出る。


 廊下ではメリーモがアメとクモの傍に寄り添っていた。顔を覗き込むようにしてふたりを観察しているようにも思えた。メリーモは僕に気がついて顔を上げる。そしてささやかな笑みを浮かべた。僕の顔つきの変化を感じ取っているのかもしれない。


 僕は言う。



「ちょっと壁になってくれないかな。あるいは魔術でも構わないんだけど」

「はい?」

「人に見られないようにしてほしい」



 僕は口早に言う。メリーモは理解できないように首を傾げるが僕には時間がない。弱い呪いであれば時間経過が薬になる。しかし強い呪いであれば時間経過はさらにふたりの身体を蝕むことに繋がるのだ。……そして僕の予想では、これは強い呪いに分類される。


 なにをどうしても眠り続けるというのは、最も死に近い状態でもあるからだ。


 僕はさっさとアメとクモの服を脱がしていく。同時にメリーモがすべてを了解したように肉体で壁を作ってくれる。周りから見られないように。そして僕はアメとクモのどちらにも呪いの刻印がされていることを確認する。



 アメは膝の裏に。


 クモはお尻に。



 ――呪い手は誰だ?



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