87.勇者の短剣
87
巨大な蛙が喉袋を膨らませると同時に軽々しく跳躍し――天井に張り付いた。その影の下から地を這うようにして接近してくるのは大蛇だった。縦に大きく開けられた口はそれこそ天井にまで至りそうであり――牙が猛烈な腐臭を放った。
頭上から毒液が吐き出され、正面では蛇が笑う。
ただ僕は冷静だった。
毒液の軌跡を冷静に眺めながらタイミングをもって壁を蹴った。空中に身を滑り込ませる。さながら自分の身体と毒液の塊の位置をすり替えるように。眼下で毒液が跳ねた。掠りでもすれば皮膚から神経に
右手に持った短剣を軽く振った。
蛙の体は柔らかい。噴き出る体液は羽織っていた上着をマントのように扱って皮膚に付着するのを防いだ。僕は蛇の背後に着地する。尻尾が勢いよく振られた。ステップで距離を取って躱し、すぐにまた重心を戻す。振り返る蛇の口に向かって思い切りナイフを投擲した。
口蓋から頭へ。
ナイフが蛇の頭蓋骨を粉砕したのを確認して僕は気を抜く。
遅れて蛙と蛇の肉体が砂のようになって消えていく。……黒い砂だ。垂れ流していた粘液も砂になって消える。もう何度も見た光景だった。よって僕は気を払うこともなく寮の部屋へ戻る。アメとクモが寝息を立てている部屋へ。
二人の寝ているベッドの隣に静かに腰を落ち着かせる。
外界から遮断されている感覚はまだ戻らない。ただアメの魔術がなくとも時間の経過によって戻ることは確認済みだった。しかし問題は連続の襲撃もあり得るということだった。つまり外界から遮断されている状態が戻らないままで新たな襲撃が起こることがあるということで……僕は意識を研ぎ澄ませて警戒を続ける。
……眠気がひどい。
頭の痺れている感覚がある。
戦闘を終えた直後だからだろう。気が抜けているのかもしれない。すこしでも気を抜けば意識が眠りに落ちてしまいそうだった。それを拒むように僕は立ち上がって備え付けの洗面所に向かう。そこで短剣を洗った。ぴかぴかに。
銀色の短剣。
『ねーサブロー、どうせならもっと格好良い武器とかどうよ? ほら! あたしが買ってあげよっか? なにか欲しいものとかない?』
『んー。いや大丈夫。普通に短剣でいいよ』
『私はサブローくんの短剣、似合ってて良いと思うよ?』
『ありがと。まあ似合っているかどうかはともかく、使いやすいからね』
ラズリーとスピカとの会話を思い出す。冒険の途中で野宿をしている途中だったか。ああそうだ。ドラゴンは夜の闇に消えてひとりで遊んでいるようだった。シラユキはなにをしていたか。テントの外で警戒でもしていたのだったか。
思い出す。思い出す。思い出す。指先の痛みに気がついて目を覚ます。
短剣の先で指を切っていた。……短剣を洗いながらにすこし眠っていたのかもしれない。僕は気を取り直すようにして短剣を洗ってから自分の顔も洗った。冷水で顔の表面を叩くようにしてばしゃばしゃと洗った。眠気を強制的に吹っ飛ばしていく。
ところで短剣は冒険者にとってあくまでもサブの武器という認識が強い。
僕は大きく欠伸をして脳味噌に酸素を送りながら考える。……それでも僕にとってはメイン武器と呼んでも差し支えない。それこそ要領としてはシーフの扱う短剣と大差ないのではないだろうか? もちろん僕にシーフほどのスピードはないけれど。
それでも僕は避けるのが上手だ。そして避けるという行為は相手の身体と自分の身体が肉薄することを示しており――つまりその瞬間に僕は一方的に相手を切りつけることが出来るのだ。これは普通の剣などではなしえない。剣そのものが回避の邪魔になってしまうし、そもそも振るまでに時間が掛かるので機を逃してしまうからだ。
ベッドに戻る。
それでも僕は立ったままでいる。
腰を落とせば今度こそ眠ってしまいそうな予感があった。「すこしくらいなら」という甘い考えも脳味噌には浮かんでいた。息を吸い、息を吐く。心臓の鼓動は落ち着いている。落ち着きすぎている。それこそ眠る直前の心拍数に近い。よって僕は踵を返してまた部屋を出た。
タイミングは良かった。
――今度は『犬』と『猿』のコンビらしい。
ところで僕はあっさりと『蛙』と『蛇』を撃退したわけだけれどそこには理由がある。……生きていない。そうだ。図書室において本と紙の攻撃を容易に避け続けることが出来た理由とまったく同一である。
召喚された彼らは生きていない。
原理はよく分からない。ただもしかすると――『死んだ生命体を甦らせる召喚術』に近いのかもしれない。よって僕はこれまでの襲撃でパターンを掴んでいた。どういう距離感でどういう攻撃が来たときにどういう動きをすれば良いのか。どうすれば相手の攻撃と位置を誘導することが出来るのか。
すべてパターンで理解できる。
『犬』と『猿』の襲撃も切り抜ける。というか流れ作業のように撃退する。と同時に外界から音が戻ってきた。これで三十分ほどは余裕が生まれるだろうか……? いや。僕はまた部屋に戻って短剣を洗う。
連続で襲撃が来ることもあるのだ。
アメとクモは熟睡している。僕はふたりの寝顔を羨ましく思う。けれど昨夜の番は二人だった。そのとき熟睡……することは出来なかったけれど身体を休めていたのは僕なのだ。それを思えば羨ましく思うこともないだろう。
――それから朝陽が昇るまで間欠的に襲撃は続いた。
一睡もすることは出来なかった。
アメとクモは不自然なまでに眠り続けていた。
窓から明るすぎる陽が射して二人の寝顔を眩しく照らしても二人は起きなかった。
眠り続けていた。
眠り続けていた。
眠り続けていた。
眠り続けていた。
眠り続けていた。
とうとう僕は二人に声を掛ける。二人の身体を揺する。……起きない。水を掛ける。起きない。火傷しない程度に火を近づける。……反応なし。僕はいよいよもって異常事態だと判断する。それでも頭が回らない。脳味噌がまったく異常事態を異常事態だと認識してくれない。
……どうする?
分からない。生きてはいる。心臓も動いているし寝息も立っている。それでも起きない。なぜ? なにかされている? なにを? 分からない。脳味噌が回転してくれない!
学園の門が開く時間になる。
寮内はにわかに騒がしさを増す。
そして僕は部屋の中で呆然と立ち尽くすことをやめる。
動かなければならない……!
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