86.眠れない五日目


   86



『いいかい少年。今後きみが冒険者となり、あるいは勇者となって活躍していくにあたって、重要視しなければならないことが一つだけ、ある』



 満月を頭上にしながら師匠は言った。


 僕は師匠が作ってくれたお団子をもちゃもちゃと口の中で咀嚼していた。味はほんのりと甘い。噛めば噛むほどに甘みが増してくる特性の団子。……たぶん十五歳とかそのあたりの年齢だったはずである。


 僕の身体は例に漏れず痛めつけられていた。それでも優雅に月見団子を頬張れるのは身体が師匠の修行に慣れていた時期でもあったからだろう。


 僕は団子を咀嚼しながら頷きだけで師匠に相づちを返す。師匠はそれをどこか呆れた目線で見下ろしながら言う。



『睡眠だよ。少年』

『……拍子抜けする答えですね』

『そう思うかい?』

『はい』

『それがきみの甘さと弱さだ。いいかい。たとえどれだけ過酷な旅であろうとも、睡眠は必ず摂りなさい。ほんの僅かでも構わないからね』

『僕を何歳だと思ってるんですか……』

『まだきみは子供だ。しかし子供扱いして言っているわけではない』

『でもぶっちゃけ、徹夜くらいだったらなんともないですよ。僕は』

『命の危険がないからね。命の危険が身近にあるとき、きみは同じように余裕を保っていられるだろうか?』

『僕、若いんで。師匠とは違って』

『なるほど。試してみよう』



 師匠は良い笑みを浮かべて言った。すごく優しそうで柔らかな笑みだった。思わず僕もつられて笑ってしまった。そして僕の眠れない修行の日々はスタートした。


 ……僕が泣いて許しを乞いたのは五日後だ。つまりおよそ百二十時間も僕は師匠によって睡眠を妨害し続けられて、泣いた。普通に泣いた。睡眠を摂っていなかったので感情も抑制出来なかったのだ。ゆえにあろうことか逆ギレしていた。自分を見失っていたのだ。


 睡眠不足というのは恐ろしい。


 それから十二時間ほどぶっ続けで眠り続けてようやく僕は自分を取り戻した。


 ――睡眠は大切だ。僕は勇者となって冒険を続けていく中で師匠の言葉を実感として捉えることが増えた。たとえばダンジョン内など。鉄扉を抜けた先に広がる未知の空間には安全という二文字は存在しない。光の膜を通って一歩目を踏み出した瞬間に眠っている地雷の魔物を呼び覚ましてあたり一帯が雷撃に瞬く可能性すらあるのだ。


 そんな状況下で睡眠を摂っていない脳味噌など……自分の脳味噌であったとしても信用出来るはずもない。だから睡眠は重要だ。なにより自分を信じ切るためにも必要だ。なにが起こるか分からない状況下であれば尚更に。


 ――そして僕は眠らない。


 正確には、眠れない。


 夜の静寂しじまに他人の寝息が澄んで聞こえる。


 二人の寝息。


 アメとクモが寝息を立てている。僕は目を開けて天井をぼんやりと眺めている。寝息は隣のベッドから聞こえる。さらに耳を澄ませばどこからか家鳴りの音も聞こえる。夜風が寮に染みていくかすかな音も聞こえる。寮内を歩いている静かな足音すらも振動となって僕に伝わってくる。


 ……音が伝わってくる間は安全だ。


 だから僕は目を瞑る。眠りはしない。なぜなら今日は僕が夜の番を務めることになっているから。ちなみに昨日はアメとクモの双子だった。二人も昨日は眠れなかったのだ。だから今日の午前中から夕方にかけてはくたびれている様子だった。


 ああ。


 既に【王立リムリラ魔術学園】に潜入して五日が経っていた。


 僕は瞼の裏に五日間の動向を思い浮かべる。初日には大きな進展があった。ナイリーとの出会い。レインドルという司書の存在。黒本。悪魔との契約魔術。悪魔教の幹部が存在しているのも濃厚だ。カミーリンさんから【リックン・マーシャル】という大会についても教えてもらった。


 しかし。


 初日を除いた四日間で得た進展はゼロに等しかった。有益な情報もなにも手にしていない。そもそもアウェイな関係というのも影響しているだろうか。誰かに話を聞こうにも僕という人間は魔術的素養に乏しいただの職員である。絶妙な加減の気配遮断の魔術によって僕はS級勇者ではなくただの職員なのだ。


 甘く見ていた、油断と慢心。というのが僕の心には大きく重く当てはまる。


 ゆえに……得たいは知れないが【リックン・マーシャル】に出場するというのは頭に入れておかなければならない。……とはいえ魔術大会に出て僕が活躍出来るようなことはあるのだろうか? もちろん出なければ可能性はゼロだ。であるならば種は蒔いて花は咲かせるように努力するべきなんだろうけれど……。


 音が消える。


 僕は目を開ける。


 カミーリンさんが手配してくれた寮の一室だった。


 寮は四階建てで箱の形をしている。中庭を囲うような形で部屋と壁が繋がっているのだ。まさにその中庭は箱庭という言葉が適切に当てはまるだろう。


 東側の部屋が職員の寮だった。生徒がたくさんいるのだから職員も同じように多い。僕とアメとクモの三人が一時的に済むことになったのは三階の角部屋だった。他の部屋よりも良い部屋らしいが……便。と僕は部屋の鍵を渡されたときに思った。


 僕は眠気を脳味噌の隅になんとか追いやりながら部屋を出る。廊下……気配はない。音もない。それもそうだ。。これは初日に僕達を襲ってきた暗黒の生物と同じであり……同様の現象は連続して起きていた。


 自分たち以外の人気ひとけがなくなって三十分前後の時間が経つと、現れる。



「……芸がないなあ」



 廊下の向こう端。僕達が眠れない原因。間欠的な襲撃。


 ひたひたと黒々とした粘液を垂れ流しながらこちらに向かってくるのは……犬と猿ではなく、『』と『』だった。


 僕はサバイバルポーチに手を這わせ――短剣を握った。


 杖は使わない。杖はあくまでもサポートのためだ。僕がひとりで戦わないといけない場面では……短剣。


 蛙が舌を伸縮させて空気を舐めた。


 蛇がゆっくりと鎌首をもたげて眼を光らせる。



 ――眠気を殺すようなため息を吐いて、僕は走り出した。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る