84.魔界のサダレ


   84



 ――魔人サダレの現在地点は【魔界】にあった。


 眼下には濃紺の深淵に沈む廃墟の街並みがあった。目を凝らせば百本足の巨大な蝶が死の鱗粉を撒き散らしているのが見える。その下では地獄の亡者達が踊るように嘆き苦しんでいた。骨の魚に魂を貪られているのかもしれない。とはいえ死ぬことはない。なぜなら既に死んでいるからだ。


 亡者達はかつての支配者達だった。


 かつてこの惑星を支配していた都市の人間達――サダレ達が何千年も前に滅ぼした惑星の、都市部。


 暗黒の城は空中に浮かぶ。


 サダレは城の窓から視線を切った。そのまま翻って暗闇の通路を進む。通路にはのたくり回る黒い触手が蠢いていた。触手がぺちぺちと叩いたり巻いたりしているのは奴隷となって働いているこの都市の原住民達だ。とはいえ彼らは生きてはいない。既に死んでいる身だが――エイプリルという、サダレでさえ身の毛がよだつほど性格が悪い悪魔的な魔人によって操られているのだ。


 死んでいるのに意識を持って。死んでいるのに苦しみながら。


 触手の這う通路を抜けるとエレメンタルの守護兵が待ち構えるホールに出る。禍々しい鎧を着た彼らに頭を下げられながらサダレは扉の前に立った。……立ち止まると感じるのは主人の気配だった。しかし。あくまでも気配だけが伝わってくるだけだ。


 扉を開ける。


 そこは待ち合わせに指定していた食堂だった。無人の食堂を薄暗く照らしているのは意思を持たないウィスプの軌跡だけだ。それでも白い霊魂であるウィスプはサダレの登場を喜ぶように踊り跳ねた。サダレはその頭を撫でるようにして……奥の気配に気がつく。


 がちゃがちゃむしゃむしゃぐにゅぐにゅむしゃ。


 におってくるのは胸焼けしてしまいそうなほどの油の香ばしさだった。また飯を食っている。あるいは。サダレはあからさまに顔をしかめながらウィスプを連れて奥へと歩いた。そしてテーブル席を、腐肉を食べ散らかして汚しているひとりの男――魔人に、声を投げた。


 魔人エイプリルに。



「で、なにー? 言っておくけどサダレも暇じゃないんだからね。主人のためにやる事はまだまだたくさんあるっていうのにさー」



 がちゃがちゃむしゃむしゃぐにゅぐにゅむしゃ。


 深淵と同じ色をした濃紺のスーツを見事に着こなしたエイプリルは、しかし同時に空腹の猛獣のようにマナーもへったくれもなく飯に食らいついている。丸まった猫背はいつも通りすがりに見かけるという擬音がよく当てはまる立ち姿とは似つかわしくない。等間隔に整頓された歩き方ともかけ離れている。


 がちゃがちゃむしゃむしゃぐにゅぐにゅむしゃ。



「……サダレ帰るね。やんなくちゃいけない事あるしさ」



 サダレが脳裏に浮かべるのは水槽だった。水槽でぷかぷかと浮かびながら培養されている幾千もの命達だった。……どのような形に孵化するのかはサダレには分からない。サダレが培養水槽に関わっているのはあくまでも水質の維持――水にマナを流し込む作業という分野だけである。別の魔人に頼まれたのだ。


 当初は面白くなかった。こんな単純な作業をするくらいなのであれば――サブロー。名を想ってサダレは身体を火照らせる。ああ。サブローを想うと身体が疼いた。胸が騒いだ。はやくリベンジしたい。はやくまた相まみえたいっ。はやくまたダンスをっ。今度はどちらかが必ず尽き果てるまでの戦闘を!


 しかし。


 がちゃがちゃむしゃむしゃぐにゅぐにゅむしゃ。


 エイプリルが貪る。ひたすらに肉を頬張って噛みついて頭を振って焼かれた血肉のにおいをあたりに振りまく。顔は延々と下に向けられている。黒髪のオールバック。スーツ姿。かつて別の惑星のとある島国ではフォーマルな格好だった。思い出す。


 そういえばエイプリルはその島国を滅ぼしたのだったと。


 滅ぼした上で島国の住人達に擬態して――スーツ姿にオールバックという格好をいまも続けているのだと。


 ウィスプのほの暗い明かりに照らされるエイプリルの食事風景を見下ろす。


 ……当初は退屈だったが、存外に水槽の命を飼うというのは悪くない。ああ。そういえばサブローとも約束していた。サブローは死ぬことを怖がっていた。だから飼ってあげると約束したのだった。うん。それもまた悪くないかもしれない。そのためにいまは事前に感触を確かめている段階でもあるのかもしれない。うん。


 ひとり頷いてサダレはようやく踵を返そうとする。


 その瞬間に食事の音がんだ。



「サダレ」



 声は痩せ細った枯れ木を思わせるほどに渋くて低かった。風が吹けば幹の皮膚が剥がれてぽろぽろと崩れ去ってしまうだろう。――魔人エイプリルは先ほどまでの獣を思わせるような食事から一転、質の良いハンカチーフで口元を念入りに拭って言う。



「お待たせしました。お話をいたしましょう」

「本当に待たせてるよねー。一発ぶん殴らせてくんない?」

「構いませんよ?」



 眼鏡を指で支えるようにしながらエイプリルは言った。だから容赦なくサダレは拳を振った。軽く。それでもテーブルは衝撃に負けて脚を折った。食器が舞う。腐肉が散らばる。においが立ち上った。


 エイプリルは生真面目そうな顔面を無表情に凍り付かせて拳を受け止めていた。ひたいで。……痛いなぁ。サダレは拳を広げてひらひらと振りながら思う。ていうかなんでサダレが痛い思いをしなきゃいけないの? いや殴ったのはサダレだけどさぁ。


 ムカムカとした気持ちを奥歯でかみ殺しながらサダレは言う。



「で、なにさ? さっきも言ったけどサダレだって別に暇なわけじゃないんだからね?」

「あなたを負かした勇者について教えていただきたく」

「……なんで?」

「私の配下が困っている様子ですので」



 淡々としている。淡々としながら――眼鏡の奥にあるのは感情の見えない瞳だ。冷たい瞳だ。サダレの脳裏に浮かぶのはサブローだった。そのサブローの瞳とは正反対のエイプリルの眼光が目の前にある。


 気にくわない。


 浮かぶ感情はなにに起因するものか。サダレは自然と苦虫を噛み潰すような表情になりながら言う。



「いいよ。サブローはサダレがやるから。逆に教えて? サブローがどこにいるのかとかさ」

「面倒ごとを増やすような真似はよしていただきたい。あなたは敗北した身だ。前回の会議で決まったはずです。しばらくはこの城から出てはいけない」

「……サブローは、サダレがる」

「わがままを言わないでください。まったく」



 呆れたようにエイプリルは言う。そうして立ち上がりながら指を鳴らし――屍人しびとの気配が近づいてくるのをサダレは感じた。それは扉――ではなく地底の底。うつつとは違う裏の世界の地底から――顕現する。気がついたときには食堂は屍人に埋め尽くされんばかりに混雑し始めた。


 しかし屍人には意思がない。ゆえに動かない。――命令があるまでは。



「なに? サダレとやる気? べつにいいけど? そっちがその気なら」

「まさか。あなたが汚したものを片付けるだけです」



 また指が鳴らされる。


 屍人はてきぱきと動き始める。


 サダレが破壊した机や散乱する食器、腐った肉や粘液があっという間に片付けられていく。……無気味だ。サダレは思う。もちろん魔人は同種だ。仲間だ。それでも一枚岩というわけでもなく、正直にサダレはエイプリルが苦手だった。


 エイプリルは屍人を尻目に言う。



「あなたがその勇者に執着しているのはよく分かります。それでもあなたは選択しなければいけません。サダレ。――主人と勇者、どちらの比重が重いのか」


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