78.S級勇者の簡易魔術
78
未知なる生物との戦闘において最も重要なことは観察だった。
僕は観察する。黒い粘液を垂れ流しながら階段を進んでくる犬と猿。僕達を踊り場に追い詰めてくるような動き。この生物はなんなのか。……僕の脳裏に過るのはララウェイちゃんだった。なぜにララウェイちゃんなのか。それにしてもララウェイちゃんは元気にしているだろうか?
そろそろ呼び出しても良い頃合いか。
ララウェイちゃんと、階段を下りてくる犬、そして階段を上ってくる猿。
共通点があった。それは気配の希薄さだった。とはいえ生物としての希薄さとは違う。それは意図的な薄さ――つまるところは強制的な薄さだった。なにが原因か。僕は分かっている。
僕は「アメ。クモ」と二人の背中に声を掛けながらサバイバルポーチに手を忍ばせる。二人はなにも言わずにただ体勢を低くした。二人は信用できる。二人は僕を守るために前に出たのだ。僕に背中を向けているのだ。僕がサバイバルポーチから取り出すのは――杖。馴染みの細くて長い、杖だ。
ララウェイちゃんを思い浮かべたのはなぜか。――共通点は召喚。召喚だ。そうだ。この犬と猿達は召喚されたのだ。
僕は犬がぐっと前傾姿勢を取るように体勢を屈めたのを見る。猿が威嚇するように黒い歯を剥き出して甲高く鳴いたのを聞く。それを見て聞きながら僕は言う。
「好きに動いて良い。サポートはする」
と。
言葉を投げた瞬間にはクモの姿が消えていた。速いっ。だが目で追える。天井。踊り場の天井に張り付くようにクモは床を蹴っている。同時に音――猿の威嚇をかき消すような爆音が響いたと思った瞬間に犬が階段から僕達に牙を剥いた。害意に満ちた跳躍――さらに後続も続こうとする。
瞬間に僕は杖を振る。
簡易魔術。
無詠唱。
それは俗に生活魔法とも呼ばれている。僕が杖の先から流したのは水だった。軽く衣服を洗うような水流――だがいままさに跳躍しようと足に力を溜めている犬たちには効果が抜群だった。水流に足を取られてうまく跳躍出来ずに階段の上で転ぶように踊り場に落ちてくる。仕留めるのはアメだった。
爆音の後の静寂。
いきなり世界から音が消える。なにが起きているのかは分からない。なにをしているのかも分からない。ただ足を取られた犬たちの頭がいきなり
ところでクモの姿はない。
「キャアアアアアアアアアアアアアアッ!」
甲高い叫びは女の叫びにも聞こえる。だが猿の
杖の先を先頭の猿へ向ける。
床に這いつくばった犬を処理するようにアメが魔法陣を発現させた。瞬間に先頭の猿が黒い粘液質な塊を手に持って振りかぶる。その手の最も重要な部分である肘に向かって僕は杖を振った。突き出すように。
風の簡易魔術。全体の力量としては濡れた髪を乾かす程度の力しかない。それでも圧縮すればそれなりだ。僕の魔術は人をよろめかせる点の圧力となって猿の肘を突く。振りかぶった猿が階段でよろめいて――既にその猿の背後に仲間はいない。
透明ななにかによって猿たちは静かに処理されていた。
爆音。音圧によって猿がさらによろめいて階段を下りる。だが透明ななにかに支えられるようにして止まる。ああ。既に僕の足下に横たわっている生き残りの犬は音に耐えられずに死んでいた。そして最後――残った猿もまた首を飛ばされて死ぬ。
全滅までには一分も経っていない。
僕はそれでも油断せずに気配を探った。意識を周囲に研ぎ澄ませた。……新たな気配はない。問題はないようだ。僕は杖をサバイバルポーチにしまう。
同じタイミングで頭上から声が聞こえた。
「お疲れー」
「……お疲れ」
クモは天井に張り付いている。改めると普通にパンツが見えていたので僕はまた自然と視線を逸らした。するとクモは僕の背中に抱きつくように着地した。「……どうかした?」「いや、なんとなく?」と意味のない会話を終えてクモはちゃんと床に両足をつける。
そうしてアメは冷めた視線で僕達のやりとりを見守っていた。
……アメに関してはまだ理解が出来る。魔術。音の魔術。珍しいけれど知識としては保有している。それにいかにもギャングにはぴったりだ。特に暗殺を主に引き受けているタイプのギャング――アサシンとしては。
けれどクモに関してはまったく理解が及ばなかった。でも身体自体はずっと天井に張り付いているような感じがあった。それでも透明になって自由自在に動き回って……それが終わるとまた天井に戻っている? うーん。よく分からないな。
「隔離を解くわね」
「……ああ。そういえばそうだった。そういう話だったよね」
「時間を稼ぐとかじゃなくて全滅させちまったなー。てか兄ちゃん良いサポートするじゃん。うちらと正式に組もうぜー。なんか気ぃ合いそうだしさあ」
「残念ながら僕はもうパーティー所属済みだ」
「抜けちまえよー」
「気が向いたらね」
なんて。
クモと軽口を叩き合っているうちにアメが詠唱を続けてくれる。虚空に現れた魔法陣が内側から紋様を完成させていく。それがすべて完成する前に僕はクモとの会話を打ち切って犬と猿の死体に視線を下ろした。よく観察する。……ピン。
ピン! と頭の中でほのかに照明の灯る感覚があった。
アメが詠唱を終える。
魔法陣が光り輝く。
隔離されていた階段の踊り場が外界と接続されていく。閉ざされていた音が広がっていく。次第に足音が聞こえる。階段の前にいきなり生徒と思しき人が現れた。彼は小首を傾げてそのまま階段を上っていく。……音が聞こえる。賑やかな校舎の音が。
「で、なんだったんだろーな? 兄ちゃん。校舎に仕掛けられてる罠とか? 誰かの悪戯かな?」
「だとしたら殺意が強すぎる。僕達に指向性を持った悪意も強い」
「ってことは?」
「誰かが僕達を殺そうとした」
「へー」
「単純明快ね」
のんきそうな二人に僕は目を向けた。……のんきそうなのは慣れているからだろう。命のやりとりというものに。それも僕のような人間は魔族が相手だけれど――二人は人間が相手なのだ。人間相手に命のやりとりをしているタイプだ。命を狙われてものんきそうなのも頷ける。
そして僕は閃いた内容を口にしている。
「図書室に戻ろう。ナイリーには悪いけど、まだ残ってたら聞かないといけないことがある」
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