61.黒点


   61



 青空に浮かんでいる黒い点。輪郭は丸いように見えるけれど完全な円形ではない。むしろ微妙にではあるけれど楕円を描いているような気もする。あれは一体なんなのか。馬車の箱に乗り込みながら僕は訊き、そしてランプちゃんは答えていた。



「魔神が復活したときから、空に見えるようになったんです」



 ……そこで僕はすこし考える。なんとなしの直感で繋がるのは百二十年前の出来事である。つまりこの世界で初めて魔神が復活したときのこと。あのとき魔神は――大陸を一つ支配したはずだ。僕は歴史で学んだことを思い出しながら考える。魔族と人間の戦争。魔神という未知なる脅威。


 かつての魔神は北方にある大陸を支配した。その大陸を拠点として君臨していたはずなのだ。



「ランプちゃん」

「はい?」

「魔神っていうのは表だって行動しているのかな? たとえば魔族を従えてどこかに侵攻してくるとか」

「ええと、いまはそういう話は聞かないですね。【ハートリック大聖堂】が魔神復活を宣告しましたが、でも実際に、目に見える形で魔神が復活したと分かる出来事は起きていないはずです」

「……起きていないんだ? なにも」

「はい。なにも。……ただその、あの黒い汚れみたいなのはずっとあるんですけど」



 すこし困ったようにランプちゃんは言った。それで僕もそれ以上の追求はやめることにする。たぶんランプちゃんに聞いても仕方がない。というかランプちゃんはあくまでも一般人なのだ。……いや。一般人ではないか? でも冒険者とは違う。


 そして僕は深く考えそうになる。百二十年前との差異について。それから魔神について。またサダレも頭に浮かぶ……が。そこで僕は考えることをやめた。考えても仕方のないことだと思い直す。


 なにも実害が起きていないのならばそれで良い。


 僕はまた青空を仰ぐ。……するとやっぱりその黒い点というのは目に入ってしまう。気になってしまう。それでもやがては気にならなくなるだろう。人間というのは慣れる生き物だ。適応する生き物だ。なんの問題もないのであれば次第に気にならなくなる。日常の一部へと変化してしまうかもしれない。


 そして僕は自宅に帰った。


 退院初日ということもあってランプちゃんも一緒に家に来てくれた。このままランプちゃんの好意に甘え続けるのはどうなのだろう? と思うけれどありがたいので自分の気持ちには蓋をする。そして甘え続けて気がつけば夕暮れ。晩ご飯と翌朝のご飯まで用意してもらうことになる。


 申し訳なさでいっぱいです……。


 帰途につくランプちゃんを見送り、僕は家にひとりになる。


 するとすこしだけ寂しさを覚える。入院中は毎日誰かしらと交流を持っていたから当然の感情か。でも寂しさも悪くないと感じる。やっぱり人間にはひとりきりの時間というのも大切だと僕は思うから。


 そして僕は日常に帰ったことを実感するかのようにルーティンをこなす。ランプちゃんが沸かしてくれたお風呂にもゆっくりと浸かる。鼻歌まで歌う。お風呂からあがったらゆっくりとご飯を食べる。そして適当にマナッチの配信なんかを見ながら時間を潰していく。


 ちなみにマナッチなどの配信技術はとある国のとある企業が独占している。ラズリーによる分析によればマナの波――周波数に工夫があるらしい。とはいえ一般の人間にとっては「よく分からない」の一言に尽きるだろう。僕にもよく分からない。ラズリーにさえ実態が掴めていないのだからそんなものだ。


 ところで一時期【原初の家族ファースト・ファミリア】はマナッチなどの配信を通すことで意思伝達を行えないかと試行錯誤していた時期がある。でも配信規約に引っかかるようですぐに中止になった。まあなにかしらのキャパシティの問題などがあるのだろう。ということで離れている場合の意思伝達はメッセージ・バードのままだ。


 なんて考えているうちに時間が過ぎていって僕は欠伸をする。


 さて。


 そろそろ眠るかと考えてリビングから自室に戻る。ちょっとだけララウェイちゃんを呼ぶことも考えたけれど今日は疲れているのでやめておく。そして僕は自室でベッド……には向かわずに自分の机に向き合った。


 棚から便せんを取り出す。


 ペンを握る。


 ……なにを書こうとしているのか。自分でもほとんど意識はなかった。それは無意識の行動だった。ただペンは、まるで透明な文字をなぞるかのように動いて文字を作り出していく。その出来上がった文字を見て僕は苦笑をかみ殺した。



 ――『退職届け』。



 おいおい。世界がこんな状態になっているのに僕はなにを書いているんだ? なぜに『退職届け』なんて書いているのだ? ……それは決まっている。僕の心は潰されそうになっているからだ。


 動いているときには気がつかない。けれど立ち止まってみれば痛みに気がつく。誰でもそうだろう。怪我に気がつくときというのは動いているときではないのだ。動き終わったあとに気がつくのだ。あ、怪我をしているな……と。


 しかし、たぶんこれは誰にも理解できない感情だろうな。


 と僕はつらつら『退職届け』の下に理由を書きながら思う。周りからしてみれば僕というのはちゃんと勇者なのだろう。それは市井しせいの反応なんかを見ていれば分かる。僕に対して向けられる他の人達の感情を考えてみれば分かる。


 たぶん他の人からしてみれば僕というのは「しっかりとしたS級勇者」なのだろう。「実力のある勇者」なのだろう。


 ただ、それが苦しいのだ。


 僕には荷が重いのだ。


 迷って悩んで葛藤した末に僕は新しい『退職届け』を完成させる。それを丁寧に封筒に仕舞う。……しかしそれを本当に提出する勇気があるのかどうかは疑問だった。僕は実際のところどうなのだろう。この封筒をどうするのだろう。魔神が復活した現状において僕はそれを提出出来るのだろうか。マミヤさんに相談を持ちかけることが出来るのだろうか……? あ。


 あ!



「相談すればいいんだ!」



 と口に出してしまえば答えは簡単だった。そうだ……。そうだそうだそうだ! ちなみにマミヤさんも忙しい中で僕のところにお見舞いに来てくれたらしい。そのとき僕は眠っていたから顔を合わせることは出来なかったけれど……。でもそうだ。


 【原初の家族ファースト・ファミリア】が結成されてからずっと僕たちはマミヤさんにお世話になってきたのだ。【原初の家族ファースト・ファミリア】はマミヤさんのお陰でここまで大きくなれたところがあるのだ……! であるならばやはり僕は相談するべきだろう。相談しなければならないだろう。


 いやまったく。どうしてこんな簡単なことに気がつかなかったのだろう?


 よし。


 僕は『退職届け』をポーチに入れてから寝床につく。そして明日には冒険者協会に顔を出そうと決める。マミヤさんに僕の感情を相談してみよう。出来るならば僕が辞めても構わないような道筋を作ってもらおう。それがいい。


 それが……たぶん、それでいい。




 そして――――このとき僕は心に浮かんだというものに蓋をしていた。蓋をするべきではなかったのに。

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