52.そして僕は勇者になった(前編)


   52



 現在地点から遠く離れた五年前。



「おや。久しぶりじゃないか少年。風の噂で聞いたよ。勇者になったんだって? ……いろいろと諦めたと聞いていたんだけれど。心変わりでもあったのかい」

「……まあ。心変わりはありましたね。いろいろと。お久しぶりです」

「うん。まあ、中に入るといいさ」



 およそ一年ぶりに。


 十八歳。勇者になったばかりの僕は師匠の家を訪ねていた。


 僕は冒険者を諦めた身だった。


 時系列を整理してみれば――イタい勘違いによって師匠に弟子入りしていた時期が十歳頃から十七歳まで。けれど。


 十八歳になって社会に出た僕は現実を知った。自分自身の凡庸さを知った。同時に冒険者として危険に身を置くよりも安全な場所で働いていた方が楽だということを知った。……そうだ。楽なのだ。冒険者よりも一般的な労働の方が楽なのだ。それを僕は知ったのだ。そして僕は低きに流れる普通の人間だった。


 ゆえに高校を卒業してから二ヶ月が経った日に、僕は師匠のもとを訪ねて言っていた。



『ここまで面倒を見て貰って、あれなんですけど……。すいません。僕、普通に暮らそうと思います。やっぱり師匠の言う通り、僕には戦闘の才能はないですし……』



 ……そのときの師匠の表情というのは暖かいものだった。それこそ教会のシスターが生まれたての赤子に向ける表情にも似ていた。そして師匠はゆっくりと頷いてくれたのだ。



『寂しくなるね。でも、たまには顔を見せてくれるだろう? まさか少年。私をひとりにするつもりじゃないだろうね?」

『……当たり前ですよ。顔は出すに決まってます。まあいまは仕事を覚える時期なので忙しいですけど……。慣れて時間が余ってきたら会いに来ますよ』

『うん。ならいいさ。いつでも私はきみを歓迎するよ。諦めようとなんだろうと、かわいい愛弟子には違いないからね』



 ――それからちょくちょくと僕は師匠のもとを訪れていた。それでも一年間もの間が空いてしまったのはいろいろなことが急展開で起きたからだ。濁流のように運命の悪戯というやつが僕を飲み込んだからだ。


 一年ぶりに師匠のもとを訪れた僕は勇者になっていた。【勇者の試練】を突破したのが三ヶ月ほど前。それからいろいろな手続きやら顔合わせやら祝い事やらで忙しくて大変だった。家族に対する報告や故郷での宴会などもあったのだ。ああ。


 師匠はすべてを知った顔で僕を自宅の奥に通す。


 師匠は微笑んでいた。……中々に見ない顔だ。それこそ僕がなにもかもを諦める判断をしたときに見せた表情でもあった。ああ。やっぱりすべてを見通しているのだろうか。


 僕はなにも言わなかった。師匠は言った。



「それで。私を頼ってきみはどうなりたいのかな」

「……まだ師匠を頼るなんて一言も言ってませんよ。僕は。ただ顔を見せにきただけかもしれません。勇者になったんですよ。すごいでしょ? って」

「目がすこし充血している。目元もすこし赤くなっている。……昔のきみはよく泣く子だったね? 少年。よく弱音を吐く子供でもあった。あの日のきみを思い出してならないよいよ、私は」



 師匠は意地悪に言いながら爪で机を叩いた。とんとん。とんとん。リズミカルなその音は不思議と不快ではなかった。


 それにやっぱり師匠は師匠だ。僕をよく知っている。僕の悪いところをよくしっている。僕の良いところもきっとたぶん知っている。それはとても安心できることでもあった。なにもかもを吐露してもいいのだという安堵もあった。


 だから僕は正直に言った。



「僕、弱いです」

「……そうだろうね。きみは弱いよ」

「師匠がずっとずっと僕に言っていたのがよく分かります。僕には才能がない。戦闘の才能がない。避けるのはちょっと上手いですけど、でも、それじゃ勝てない」

「ああ、勝てないだろうね。勝利に直結するものじゃないからね。避けるという行為は」

「【勇者の試練】で僕、みんなの足を引っ張りまくりました」

「容易に想像がつくね。……あの子達だろう? 修行に何度か連れてきていたよね。あの子達には才能があったから。きみはおんぶに抱っこだろう」

「みんなには内緒にしてるけど、苦しいですよ。しんどいです」

「だろうね。無力というのは苦しいものだよ。しんどいものさ」

「でも、僕は勇者です。…………いや」



 勇者というのを言葉にすると物凄い違和感があった。きっと僕は勇者ではない。勇者という器ではない。すくなくともいまはまだ。いまはまだ僕は勇者なんかじゃない。たとえ【勇者の試練】を突破したとしても勇者ではない。


 じゃあ、なんだ?


 勇者でないことを認めてしまえば気持ちは楽になると思った。「勇者じゃないんだから仕方ない」「勇者じゃないんだから弱くてもいい」「勇者じゃないんだから責任もない」「勇者じゃないんだから頑張らなくていい」……。いろいろな甘えと逃げの感情が頭で渦巻いた。心で渦巻いた。それを受け入れてしまえばきっと僕は楽になれる。苦しくもなくなる。しんどくもなくなる。


 泣く必要なんてなくなる。


 でも……。勇者じゃなくても……。



「僕は…………、みんなのではあると思っている」

「……そうだね。きみには不思議と、人を惹きつけて離さない魅力がある。才能のある子達がきみをリーダーとしているのも、きみの魅力のお陰だろう」

「でも僕はリーダーとして、なんの役目も果たせませんでした。それどころか……」

「逆に足を引っ張ってしまう立場だったんだろう。だから苦しい。だからしんどい。……いや。きっときみは、悔しいんだろう?」



 僕は答えない。答える必要なんてない。無言こそがなによりの肯定だと知っているから。それに認めずとも師匠は理解しているだろうから。



「それで? 最初の質問に戻ろうかな。少年」



 師匠は僕を見る。……目元にはやはり隈が濃く滲んでいる。瞳にも生気が宿っていない。まるで幽霊みたいな人だと僕は思う。でも……。


 でもその瞳の奥で炯々けいけいと光っているのは、かつて伝説の勇者と呼ばれていた人間の面影だった。Double・S級まで上り詰めた勇者の面影だった。


 なによりも【深海の星ディープ・オリオン】を率いていたリーダーの顔だった。



「私を頼って、きみはどうなりたいのかな? 少年」

「――強くなりたい」

「どういう風に?」

「リーダーとして」

「それじゃ曖昧だ」

「みんなを引っ張る存在になりたい」

「もっと具体的に」



「――みんなにおんぶに抱っこのリーダーは嫌だ。ちゃんと、ちゃんとリーダーになりたい。ちゃんと……みんなを纏められる存在になりたい。みんなを率いる存在になりたい。みんなに認められる存在になりたいっ。僕は、ちゃんと、しっかり、もっと頑張って……、リーダーとしてみんなをできるような勇者になりたいっ!」



「うん。きみならなれる。……とはいえ修行は過酷だよ。付いてくる覚悟はあるのかい」



 答えは必要なかった。


 無言こそが、なによりの肯定だ。



 そして渡されたのは、細くて長い、木の枝だった。






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