40.『逃げろ』


   40



「君はいつの時代から甦ったんだ?」



 というサブローの声が聞こえた瞬間にフーディ・モンドは意識を取り戻した。


 ……まったくもって状況が分からなかった。ただ自分がいきなり怒りの感情を抱いてサブローに食ってかかった場面だけは覚えていた。胸襟を掴んだ感触も手のひらには残っていた。……ただ。ただいまの状況はまるで分からない。なにが起きている? いや違う。なにが起きたのだ? そしてどうして自分はいま地面に横たわっている?


 周りの草花はなぜか焼けていた。自分たちがその火に飲まれていないのは魔術障壁のお陰だった。その魔術障壁にしてもププムルや【虹色の定理ラスト・パズル】が発動させていた魔術障壁とはすこし気配が違う。誰の魔術障壁なのか……?



「? あれ。サブローに言ったっけ? サダレが甦ったこと!」

「明確には言ってなかったけど、身体を取り戻した云々うんぬんっていうのは言っていた」

「あー。そういえば言ったね! うん。すぐ殺すつもりだったからさー、サダレ。……でもさー、時代とかはよく分かってないんだよね」



 会話が聞こえる。会話の具体的な内容は分からない。なんの話をしているのか? サブローは誰と会話をしているのか。


 フーディは重い身体を起こそうとする。けれど吐き気がするほどに頭が重い。全身が重い。まるでマナ切れでも起こしているかのように。あるいはひどい寝不足のときに質の悪い酒で酔ってしまったときのように。それでもフーディは根性を振り絞るようにして頭を上げる。


 かすむ視界に映るのは、煤まみれのサブローの姿だった。


 ……服が襤褸ぼろのように焦げてしまっている。露出する肉体には目を背けたくなるほど裂傷が幾つも線を引いている。流れた血が焦げたであろう汚れが皮膚に染みを作っていた。足も背中も腕も首もなにもかもが傷ついてしまっている。焦げてしまっている。それこそなぜ痛みに声を震わせないのか不思議なほどに。


 なにより酷いのは左腕だった。


 ……深すぎる傷から骨が覗いている。肉が綺麗にげてしまっている。なにがあったのか。どうして……? フーディからしてみれば理解が出来なかった。サブローはあの魔物の軍勢さえ無傷で切り抜けてしまった回避の達人だ。そのサブローがこんなにも傷つくことなんてあり得るのか? どうして?


 そしてやっとフーディは気がついた。


 サブローの対面に立つ裸の女に。サブローと会話をしている相手に。


 フーディは反射的に顔を下げていた。頭を下げていた。まるで落雷に怯える子供のように。あるいは幽霊に怯えて寝たふりを敢行かんこうする臆病者のように。自然と。本能的に。反射的に……。


 見てはいけない。


 触れてはいけない。


 気がつかれてはいけない。


 かちかちと音が鳴る。それがなんの音なのか。自分の奥歯が鳴っている音だということに自覚するのには時間が掛かる。自然と握られた両手の拳が震える。その指先が血液を失って白く痺れていく。……あれはなんだ? あの強大な……そしてなにより凶悪な負のエネルギーを放っている相手は誰だ?


 人を絶望に追いやるようなマナを漲らせている、あの怪物は、なんだ?


 怖い――まただ。フーディは思う。スタンピードのときと同じだ。怖い。ただ怖い。ひたすらに怖い。恐怖がある。心が寒々と凍える。あれはなんだ。あれはなんだ。あれはなんだ。……スタンピードのときとは決定的な差がある。


 スタンピードのときには自分が死ぬという予感があった。


 いまは違う。


 確実に、殺される。


 目が合えば、まるで虫でも振り払うかのように、殺される。



「あのねー、気がついたら起きてた、っていう風が正しいかも。サダレ的には」

「気がついたら、ね。……随分とぴかぴかの身体をしているね。普通に老化してお婆ちゃんとかになってくれてたらいいのに」

「えー! あははっ。やだよー。若い身体の方が好きだなー、サダレは。それに動きやすいしね。うん。起きたばっかりだけど、サダレはこの身体を気に入ってるよ!」

「……ちなみに昔はどんな身体をしていたの?」

「昔? 覚えてないなぁ。……あ。でも人間みたいな身体はしていたよ? からさー、サダレは!」

「うーん。君があんまり知略とかに長けているタイプじゃなくて良かったよ。生まれ変わったばかりなら仕方ないかもしれないけど」

「え? なにそれ。もしかしてサダレを馬鹿にしてる? サブロー。ムカつくから第三ラウンドにいっちゃおうかなー?」

「結果は変わらないと思うからやめた方がいい」



 ――なぜ。


 会話の内容はやはりフーディには分からない。それでも言葉の軽さは伝わってくる。……あの謎の女が、あの怪物が軽い口調なのは分かる。けれどなぜサブローは軽いのだ? まるでなんともないように話しているのだ? あの怪物を前にして。あの怪物と対峙して。


 フーディはまたゆっくりと顔を上げる。


 先ほどの光景と変わらない。サブローはボロボロの姿である。その満身創痍の理由も分かる。怪物に攻撃を受けたのだ。間違いなく……。魔術障壁の周辺が燃えているのも怪物のせいだ。なにもかも怪物のせいだ。


 ――ふいに背中を叩かれた。


 瞬間に悲鳴を上げなかったのは単に息を吐き出したタイミングだったからだ。もしも肺臓に空気があったのならばフーディはみっともなく叫んでいただろう。そして怪物に気がつかれていただろう。殺されていただろう。死んでいただろう。


 振り返れば自分の背中を叩いたのはププムルだった。


 そして……フーディは狭窄きょうさくしていた視野を戻していく。恐怖によって回ることを拒絶していた脳味噌をゆっくりと回転させていく。魔術障壁に囲まれた自分達は死屍累累しきるいるいの有様だった。しかし徐々に快復しつつあるようだった。ププムルの他にも意識を取り戻す者が増えている。


 けれど言葉は出なかった。


 音を立てることを誰しも拒絶していた。


 全員――気がついている。怪物に気がつかれてはいけないと。意識を向けられてはいけないと。あれには関わってはいけないのだ。触れてはいけないのだ。


 人外。


 人のことわりの外にいる。


 けれど……それでも。ププムルに背を叩かれて自分がひとりでないことに気がついたからか。あるいはみんなの姿を見てリーダーとしての役割に目覚めたか。


 フーディは勇気を持って顔を上げる。そしてサブローと怪物のやりとりを見る。観察する。……自分になにが出来るか。なにをするべきなのか。



「なんか調子乗ってない? サブロー。さっきからサダレを挑発するようなことばっかり言ってさー! 言っておくけどサダレにとっては全部ウォーミングアップだからね? サダレは寝起きなの。分かる? 寝起きのストレッチみたいなものなの」

「まあ、分かる分かる。言い訳わね。うんうん。したくなる気持ちはよく分かるさ」

「うわっ、てきとー! ムカつく! てか言い訳じゃないし!」

「でも僕もウォーミングアップといえばウォーミングアップだよ。まだまだこれからだ」

「えー、嘘つきー。ボロボロじゃーん。死にかけじゃーん」

「まあ、傷つくのも僕の役目みたいなところはあるし、ね」



 と。


 瞬間。


 さりげなく。


 自然に。


 目が合う。


 サブローのんだ瞳が――フーディの瞳と交錯する。



『逃げろ』




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る