36.全滅


   36



 ――光虫ひかりむしの飛び交う暗い森。


 階層を進んだ瞬間にププムルは咄嗟に魔術障壁を張っていた。それは毒ガスなどを遮断するためのフィルターのような役割を果たす障壁だった。合同パーティー全員を囲うように広げる。遅れて【虹色の定理ラスト・パズル】の仲間が気がついたようにププムルをカバーする。……なんのために障壁を張るのか?


 高密度のマナから身を守るためだ。


 そこは先ほどまでの草原地帯とは様相が変わっていた。マナの濃度がひじょうに高かった。……マナというのは魔術を発動するのに必要不可欠なエネルギー体である。とはいえ濃すぎればそれは毒に代わってしまう。酸素と同じようなものである。



「……助かる。ちなみになんだが、維持はどれくらい可能だ?」

「全員で協力している状況なら、一日半は持ちます」

「分かった。悪いが、そのまま障壁を張っていてくれ」

「了解です」

「よし。みんな。【虹色の定理ラスト・パズル】が魔術障壁を張っている。その円から出ないように気をつけてくれ」



 フーディがみんなに注意するのを聞きつつ、ププムルは周囲に視線を這わせる。


 ……暗い森だ。まるで夜の【ヨイマイ森林】のようにも思える。しかし完全に暗黒に包まれているというわけではない。それは小さな全身を青白く光らせつつ飛び交っている光虫の影響だろうか? それもある。しかしそれだけの理由ではないだろう。


 ププムルは近くの大木を見る。……木立はすべてが大きく、幹も太い。そしてなによりも空を仰いでも葉が見えないほどに高くそびえている。……空はどこにあるのだろうか。


 夜のように思える。けれどたぶん夜ではないだろう。ププムルは思う。偽物の空はちゃんと昨日してこの森を照らしている。それでも葉が高すぎて光が遮られているのだ。さらに濃度の高いマナが邪魔をしている。それがこの暗さの原因だろう。



「サブローさん。なにか見えたりはしないか? あんたの目も頼りにしたい」

「……」

「……サブローさん?」



 フーディに声を掛けられてもサブローは応答しなかった。ププムルも慌てて二人の方に視線を向ける。


 そこにいたのは眉をひそめて一点を見つめるサブローだった。眉間に厳しくしわが寄っていた。その眼差しは鋭く細められて刃物のように鋭利だった。隣で声を掛けるフーディの姿は目に入っていないようだった。意識の中にも入っていないようだった。ただただ一点だけを見つめている。


 たった数日……。たった数日だけの付き合いであるけれどププムルにはそれが異常であるように思えた。なにせスタンピードを目前にしてもサブローは微笑みを浮かべていたのだ。死が差し迫っている状況にあってもサブローは微笑んでいたのだ。あの凶悪な気配を醸していた【大罪の悪魔デーモン・ロード】と対等な立場で会話を交わしていたのだ。


 そのサブローが余裕の微笑みを崩して一点を見つめている。


 険しい顔つきで一点を見つめている。


 ププムルもその方向を見た。フーディも既にその方向に明るい瞳を向けていた。……けれど二人にはなにも分からなかった。一体なにをサブローは見ているのか? なにを感じ取っているのか? なにを思って表情を険しくしているのか?


 やがてサブローは小さく呟いた。



「これ、まずいな。引き返せないかな?」

「……引き返す?」

「うん。探そう。みんなで。戻りの螺旋階段を。急ぎで」

「…………なに、言ってるんだ? サブローさん。調査隊だろ? 俺達は」

「そうだよ。でも、第一目標は変更したはずだ。フーディくん。君が変更したんだ。生存することに。……見誤った。ここはちょっとまずいよ。もう空気なんて言ってられない。だから」

「――黙れェッ! 俺達は前に進まなきゃダメだろうがッッ!」

「っ」



 突然の憤慨。激情。怒声。


 それはあまりにも唐突な怒りの発露だった。そして不自然だった。ププムルの中にあるフーディの像が一瞬にして崩れそうになる。鼻につくけれど仲間思いの善人ではなかったのか?


 次の瞬間にフーディはサブローの胸ぐらを掴んでいる。本来であれば避けられたはずのそれをサブローは避けなかった。ただ驚いたように目を丸くしていた。


 一体なにがどうしたのか。どうしてそんなに怒っているのか。



「いいかぁっ! 俺達は前に進む! 進むんだ! 進まなきゃいけないんだァッ! 俺の命令を聞けェッ!!」

「っいや。いやあ。いやああああああああ! やめてえええええええええええええええええええええッッ!!」



 いきなり耳をつんざく叫び声には馴染みがあった。ププムルが驚いた先には【虹色の定理ラスト・パズル】のメンバーのひとりがいた。普段は姉御肌の魔術師であり頼れるメンバーのはずだった。そのメンバーがいま、両耳を塞ぎながら膝を折って涙さえ流している。そうして絶叫している。喉が張り裂けるほどの絶叫を上げている……!


 ――――まずい。


 仲間内で分散しあっていた魔術障壁の負担のバランスが崩れる。その崩壊を押しとどめるのはププムルのセンスと技量だった。膝を折ってしまったメンバーの負担を肩代わりするように魔術障壁を操る。しかし。


 今度はププムルの視界が歪んだ。いや。滲んだ。なにが起きているか分からなかった。ププムルは慌てて目を擦る。そうすれば指先が熱く濡れた。……涙。涙? 泣いている? どうして? 分からない。分からないが涙を流していると実感した瞬間に感情が急に揺れ出す。涙がまたあふれ出てくる。止めようと思っても止められない……!



「ぁぁ、ぁぁあああっ、ああああああああッ! 誰か俺を家に帰してくれええええええええええええ! もう嫌だ! 帰りたいんだあああああああああああああ!」

「あぁ。うるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさいうるさい…………」

「怖い怖い怖い怖いこわあああああああああああああああああああああああああ」



 あたりで叫び声が聞こえる。でも意識はどんどん外界を遮断していく。発動している魔術障壁が手から離れていく感覚もある。それはきっとまずい。まずいと分かっている。でも同時にどうでもよくなってくる。なんでもよくなってくる。叫び声も気にならなくなっている。みんなが取り乱している。みんなが暴れている。でもそんなことすらもどうでもいい。どうでもいい……?


 どうでもいい。


 ああ――なんで私はお姉ちゃんになれないのだろう?


 お姉ちゃんになりたいな。足手まといにはなりたくないな。お姉ちゃんと一緒に【王国魔術団】に所属すれば良かった。でも逃げたのは私だ。私の弱さだ。お姉ちゃんは好きだ。でもお姉ちゃんと比べられるのは嫌いだ。お姉ちゃんみたく期待されるのも嫌だ。私は私なんだ。私には私の良さがきっとあるはずなんだ。でもみんな見てくれない。みんなお姉ちゃんと似たような良さしか私から見いだしてくれない。……苦しい……。考えたくない。なにも考えたくない。でも考えてしまう。苦しくて苦しくてたまらない。もう嫌だ。もう楽になりたい。難しいことは嫌だ。面倒くさいことも嫌だ。楽になりたい。ただただ、楽に。


 そしてププムルは発動していた魔術障壁を手放した。


 瞬間に合同パーティーを襲うのは高密度のマナだった。


 ププムルの視界で倒れていく仲間達の姿が見えた。あまりマナに適応できない体質の仲間達だった。【竜虎の流星ダブルスター・ダスト】のメンバーが多かった。でもそんなことはどうでもよかった。魔術障壁を張らないのは楽だ。なにもしていない状態というのは楽だ。出来るならばこんな状態が永遠に続いていてほしい。もうなにもしたくない。なにも考えたくない。なにも……。


 サブローの胸ぐらを掴んでいたフーディも倒れる。


 やがてサブローとププムル以外の全員が意識を失う。


 そして。



「ああ、まったく。最悪だ……」



 呟くサブローの視線はププムルには向いていなかった。倒れた仲間達にも向いていなかった。ただ暗い森の奥に向いていた。しかしププムルにはもうどうでも良かった。ただただ面倒だった。なにもかもが面倒でたまらなかった。だから自然とみんなと同じように横になった。


 ――目を瞑る最後の瞬間。



 暗い森から出てきたのは、裸の女だった。



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