21.不吉の予兆


   21



 夜は交代制で見張りを立てたから熟睡というよりは仮眠という方が正しかった。それでも寝られたならば万々歳というのが旅における常識でもある。ゆえに特に気にせず朝陽を浴びながら僕たちは馬車の箱から起床した。


 硬い床で眠ったから身体の節々が強ばっている感覚があった。その感覚をほぐすように僕は外に出てストレッチをする。特に下半身を念入り。とてつもなく大事な状況になって足が動きにくいなんて最低だからね。


 僕と同じように身体を伸ばしていくメンバーも何人かいた。ある程度身体が温まったところで僕はのんびりと周辺を散歩することにする。てきとうに河原まで歩いた。それから戻る。昨夜にププムルちゃんと歩いた道のリプレイみたいなものだ。


 ――それは嫌な予感なのか。あるいはただの緊張感なのか。


 野営地に戻る直前に僕はふいに足を止めた。朝陽を遮るように群生する木立の下で張り詰めた空気感というものを感じた。僕は一度だけ目を瞑って深呼吸を挟む。そしてまた目を開ける。まだその空気感というものを肌に感じていた。それは喩えるならば切れる寸前まで伸びきった針金の冷たさと緊迫感に似ている。


 どこから漂っているのだろう? この緊迫感は。……とはいえ空気感そのものをどうにかする力なんて僕にはない。それに空気感なんて曖昧なものは僕の勘違いである可能性だってあるのだ。だから深く気にしたところで仕方がない。……ただ。


 なにか起きそうだな。


 という予感を抱えたまま僕は野営地へと戻る。既に『トトツーダンジョン』――ダンジョンXへ向かう準備は整っているようだった。後は軽く朝食を済ませるだけ。


 そして揃って朝食を食べているときにフーディくんは言った。みんなに向けて。



「いいか。なにがあるかは分からない。予想だにしていない恐ろしいことが起きる可能性だってあるはずだ。ただ、どんな状況下であろうとも俺の声を聞いてくれ。俺の指示を聞いてくれ。俺を信じてくれ。――必ず俺は、リーダーとしての役目を果たす」



 それは真実味のある言葉だった。本心からひり出されたのだろうと容易に感じ取ることの出来る言葉だった。有り体にいえば覚悟が滲んでいた。だからみんなは静かに頷く。


 最初は感触の良くなかったププムルちゃん達【虹色の定理ラスト・パズル】も素直に頷いていた。まあアーク・ゴブリンやピクシー達に対する対応においてフーディくんの指示は完璧だった。ちゃんと【虹色の定理ラスト・パズル】を一団体の魔術師として扱ってもいた。ゆえに信頼できるとププムルちゃん達も判断したのだろう。良いことだね。


 静かに朝食の時間が終わる。



「……ププムルちゃん」



 そうして声を掛けたのはなんとなくだった。僕が未だに感じている謎の緊迫感の共感者になってくれないかなと思ったのだ。いや。なってくれないかな? ではない。ププムルちゃんも感じているんじゃないかな? という感じだ。


 ププムルちゃんのピンクの髪の毛は僅かに逆立っていた。寝癖なのか。あるいはププムルちゃんちゃんの体内の緊張と興奮にマナが呼応しているのか。どちらにせよ僕は言う。「はい?」と首を傾げているププムルちゃんに。



「変な感じ、しない?」

「……変な感じ、ですか?」

「うん。ざわざわする感じ。嫌な予感っていうう曖昧な言葉でも喩えられるけど」

「え……。えーと。その。私はその。あんまりかもです。緊張はもちろんしているかもですけど」

「そっかそっか。オッケーオッケー。いやなに。僕は臆病者で有名だからね。ちょっとばかし考えすぎなのかもしれない。ありがとう」

「いえ。……嫌な予感とか、なにか感じ取れるかもですか?」

「うーん。どうだろう」



 言葉を濁すのは自分の感覚というものを信頼していないからだ。それに僕はどちらかというと心配性のがある。めちゃくちゃ心配していたことがなんの問題もなく解決したなんていうこともざらにある。


 それに嫌な予感がするからなんなのだ? という気持ちもある。だからなんだ。それでなんだ。嫌な予感がするから引き返そう? 馬鹿を言っちゃいけない。そんなことを口にするようなら冒険者になってはいけない。勇者なんていますぐ退職すべきだ。


 退職してえええええええええええ!


 ……突然に噴出する感情を抑えて僕はププムルちゃんのもとを去る。ププムルちゃんは疑問に思っているようだったけれど「頑張ろうね」と声を掛ければ後はいつもの彼女だ。うん。それでいい。なんて思いながら次に足を運ぶのは先頭の馬車だった。


 僕はフーディくんにも言う。



「ねえフーディくんだろう。どうだろう。嫌な予感みたいなのってしない? なにか、さ」

「……嫌な予感? いや。特に俺は感じないが。……サブローさんはなにか感じるのか?」

「うーん。まあ僕が臆病になりすぎているのかもしれないけどね。緊張とかでさ?」

「……分かった。警戒は念入りにするようにする。罠のチェックも普段以上に強化しよう。体調のチェックも繰り返し行う。……それでどうだ?」

「うん。ありがとう」

「構わない。メンバーの進言を聞くのは優秀なリーダーの前提条件だ」



 僕はまたフーディくんに礼を告げて自分の馬車に戻る。最後尾。ロディンくんと同じ馬車の箱。御者台には昨日と同じ【竜虎の流星ダブルスター・ダスト】のメンバーが乗り込んだ。


 やがて馬車は出発する。


 朝にフーディくんが言っていた話では到着まで一時間ほどだそうだ。


 ……ざわざわする感覚というのはまだ抜け落ちない。そしてさすがの僕もこの緊迫感が自分によってもたらされる感情でないことを理解する。空気がおかしい。なにかがおかしい。世界がおかしい。それを僕は感じ取っているのだ。


 たぶん、目で。


 でも具体的になにがおかしいのかが分からない。なにが変なのかを掴むことが出来ていない。詳細が分からない。だから曖昧な概念になる。嫌な予感、なんていう曖昧な概念に。


 そして僕は最後にロディンくんにも言う。



「嫌な予感とかしない?」

「はい? ……嫌な予感でありますか?」

「いや、分からないなら大丈夫」

「……その。すみません。俺にはよく分からないであります」

「うん。大丈夫だよ。僕が警戒しておく」



 それで会話は打ち切った。


 これでも僕は勇者だ。仲間達のお陰で成り上がったとはいえ勇者であることに違いはないのだ。そして僕ひとりで難所を乗り越えなければならない場面もいくつかあった。たとえばララウェイちゃんと出会ったときみたいにね。


 みんなが気がつけないのならば僕が気がつけばいい。みんなが感じ取れないのならば僕が感じ取れば良い。


 みんなが見えないのであれば、僕が見ればいい。


 そして行軍は進む。


 そして一行は至る。


 ――もう手前まで来たならば見るまでもなく分かった。そのダンジョンの異様な雰囲気が。そのダンジョンから漂っている濃密な、マナが。


 【トトツーダンジョン】は大口を開けて僕たちを待っていた。



「――これのことでありますか? サブローさんが感じ取っていたものは」

「……どうだろうね」



 たぶん、違う。


 そんなことを思いながら、僕は馬車を降りる。




 ――――ああ。僕は自分の感覚を信じて引き返すべきだったのだろう。きっと。



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