第56話 愛の力


 俺達は街の角に隠れて、地下水路を通り、抜け穴を潜った。俺が牢屋に来るのに通った道を引き返していく。どうやらルーナもここを通って来たようだ。さっきは暗くてよく見えなかったが、彼女の服は土で汚れていた。

 移動の間、ルーナが進む方向や身を隠す方法を指示する以外に俺達の間に会話はなかった。辺境伯と姉御はただ黙って息を切らしつつ、ルーナの後ろをついて行く。 

 彼らにとっては、いきなり王女様が現れて、脱獄の妨害どころかむしろ手助けすらしている状況だ。聞きたい事は山ほどあるはず。だが、会話をする余裕などない。


 そうしてようやく、王城の地下牢まで戻って来た。


「ここまで来れば安全でしょう」


 ルーナが俺達に呼びかける。


「あの、殿下……どうして私を救うような真似を……」


 辺境伯が恐る恐るルーナに尋ねる。


「救う? 何か勘違いしてませんか?」


 微笑んでいるが向けたその目は一切笑っていない。イケメンは体を硬直させる。


「王国を裏切り私に手をかけようとした貴方をどうして私が助けなければならないんですか? 別にここであなたを殺してもいいんですよ……こうやってね――」


 ルーナは杖を右手に出現させると辺境伯の眼前にその先を突きつけた。

 まずいっ……そう思ったが、俺が反応するより先に、間に割って入った人物がいた。姉御だ。


「王女殿下!」


 地下に姉御の声が響く。


「……貴方がアンジェリカですね?」


 最初に相談した時に姉御の名前は伝えてある。


「ヘンリー様を殺すくらいなら、私を殺して下さい……」

「聞き入れるとでも? 貴女ではストラマー卿の代わりにはなりえない」

「――ならばせめて、私も一緒に殺して下さい」


 恐れながらも覚悟の決まったその表情。俺は何も言えずにその様子を見つめていた。


「なら、一つ貴方に問います」

「何でしょうか」

「どうして貴方はこの男の為にそこまでするのですか」


 俺はその答えを知っている。単純でそれでいて複雑で、ありふれているようで、多くの人が辿り着く事の出来ないそれが彼女を突き動かした。


「……私は彼をヘンリー様を愛しています」

「……下らないわね。本当に下らない」


 だが、冷酷な王女様はその答えを一蹴する。そして、彼女は俺の方を一瞥するとこう言った。


「でも、そうですね。今回はこの男に免じて生かして上げます」

「本当ですか……?」


 姉御の声がパッと明るくなる。


「ただし、条件があります」

「…………」

「貴方達は誰も知らない村で今の名を捨てて平民として過ごすことになります。当然、ストラマー卿は貴族として気づいた全ての地位も名誉も富も全て放棄して下さい。素性を他の人間に話す事も許しません」

「……分かっています。元よりそのつもりでしたから」


 辺境伯が答えると俺にチラリと視線を向けた。ルーナが提示した条件は俺が辺境伯に確認したことと大体一致していた。あれだけの騒ぎを起こしたのだろう。姉御の望む辺境伯との平穏な生活を送るためには文字通り無関係の他人として生まれ変わるしかない。


「そしてアンジェリカ」

「はい」

「貴方はストラマー卿を愛していると言いましたね? だからこそ彼を救いに来たと。ならば、それが嘘ではないことをこれからの人生をかけて証明しなさい。それが貴方の使命です。いいですね」

「承知しました」


 姉御は丁重に礼をする。


「ならば私は何も言うことはありません。好きに外の世界で生きなさい」

「ありがとうございます。ありがとうございます……」


 辺境伯は地に額をつけて、何度も感謝の言葉を繰り返す。


「お礼ならこの男に言いなさい」


 そんな彼を尻目にルーナが俺に目を向けて言う。


「私は何もしてないです。この男が何もしなければそのまま処刑させるつもりでしたから」


 姉御が俺に真っ直ぐ向き直った。その瞳が揺らぐ事なく俺を捕らえている。


「山本……本当にありがとうな」 


 俺は気恥ずかしくなって、そっぽを向くことしか出来なかった。


「いえ……別に俺は――」

「あ、あの殿下……一つだけ聞きたい事があります」


 土下座をしていた辺境伯が顔を上げて、恐る恐るルーナに尋ねた。姉御の感謝の言葉に何か返そうと思って発した言葉は届くことなく、こぼれ落ちてしまった。何だよ……折角話そうとしたのに……。俺が感謝されることなんて滅多にないんだぞ。


「何ですか?」

「アンジェリカと共に私の元に来たそこの彼は誰なのでしょうか? 何か妙な格好をしておりますが。殿下の使いの方であったならば失礼な態度を取ってしまったことをお詫びしたく……」


 辺境伯のその言葉にルーナがニヤリと笑う。ああ。俺は知っている。これはよからぬことを考えている時の顔だ。


「あれ、あなたはご存知のはずですよ?」

「え……」

「ソフィアですよ」


 おい、やめろやめろ。


「……は?」

「貴方の大好きな私のメイドですよ。私が慰問に行った時に彼女と散々一緒の時間を過ごしたでしょう? 貴方の屋敷でね」

「えっ……どういうことだ……ソフィアさんが男……いやでもそんなはずは……」

「ほら、これ見覚えないですか?」


 ルーナが俺の側に近づくと、首を、いや、首輪をガッと摑んで引っ張った。痛え、痛えよっ! 俺は犬か。


「その首輪……! まさか……いや、でも……?」


 辺境伯がわなわなと震えだす。

 姉御によれば彼は女装姿の俺に一目惚れをしていたのだった。実際、俺を屋敷に招いて散々アプローチをかけていた。まあ、その時は俺は気づいてなかったんですけど。 

 狙っていた女性が実は男だった時の衝撃は計りしれないだろう。


「……嘘ですよね! 貴方がソフィアさんな訳ないですよねっ……ねえ!」

「ひっ!」


 辺境伯が凄い形相で俺にしがみついてきて、思わず身を引く。


「答えて下さい! 違いますよね……違うって言ってくださいよ! 早く!」

「あの、ストラマー卿、すいません……」


 別に俺が謝ることもないのだが、こんなに絶望したような表情を見せられると何だか申し訳ない気分。


「あああっ……嘘だ嘘だ! いやああああっ!」


 完全に辺境伯が壊れてしまった。目を剥いて頭を抱えて崩れ落ちている。さっきの感動的なシーンが台無しである。


「ふふふっ……でも、まさかストラマー卿が男好きだとは思いませんでしたよ」

「嘘だ……嘘……ううっ……」


 ルーナが追い打ちをかける。もう勘弁してやれよ。俺が言うのも何だが、流石に可哀想でならない。


「ヘンリー様……あなたって人は本当に……」


 姉御が後ろで溜息をつき呆れている。

 でも、姉御がこの程度で辺境伯を見捨てることはないだろう。こうして牢屋破りをしてまで彼のことを助けに来たのだから。


「貴方達には暫くはそこで過ごしてもらいます。いいですね」


 余計なことを言って散々場をかき回してくれた王女様は、一人苦しんでいる辺境伯を無視して姉御に呼びかけた。


「分かりました」

「ううっ……ソフィアさん……そんな」


 二人を地下牢に残したまま、俺とルーナは王城に戻った。

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