『港町の蛙、無人島の猫』3/4
「セェー、リャ!」「ソォー、ヤッ!」「セェー、リャ!」「ソォー、ヤッ!」
「んー……ウルセー……」
目を覚ましたルカは、天井をたっぷりと睨みつけてから、筋肉のキレがまだ鈍い身体を起こした。
「フー……」
深呼吸をひとつ。硬く狭い寝台から降りて、低い天井や積み荷に注意を払いながら、薄暗い船底を歩く。
「セェー、リャ!」「ソォー、ヤッ!」「セェー、リャ!」「ソォー、ヤッ!」
マストにめぐらされた螺旋階段をのぼって甲板に上がると、強烈な朝日が目に沁みた。瞼をギュッと半分閉じて前を見ると、両舷に座るフロルグたちが、気合の入った掛け声に合わせて長大なオールを操っていた。さらにその先――船首には、船長のトビー、サヨカ、セラド、ヘップ、そしてヘップに肩車されているホーゼの背中が見えた。
ルカはもう一度深呼吸してから、おぼつかない足取りで仲間たちに歩み寄った。波は穏やかで、昨日ほどの揺れは無い。
「おっ、ルカサン。眠れヤシたか? 顔色は……だいぶ良くなってヤスね」
真っ先に気づいたトビーがケロリと微笑んだ。
「あー、まあ……」
「ホッホ……お嬢、きちんとお礼を。くすりを煎じてくださったトビーさんに」
「あー、……ありがとヨ」
「いえ、いえ。もう船酔いの心配は要りヤセンよ」
「着くのか?」
ルカは訊ねながら、軽い目配せで仲間と挨拶を交わす。
「あれです。意外と大きい島ですね」
答えたヘップの視線の先――300メートルほど前方に、大きな島が見えた。白い砂浜と海岸林が帯状に続き、島の奥には急傾斜の山がいくつか確認できる。
「漕ぎ方、ヤメーッ!」
船長の号令に、フロルグたちの動きがピタリと止まった。
「スミヤセンが、遠浅なんでここからは泳ぎでお願いしヤス。ちょっと進めば歩けるようになりまスんで。荷物はアッシらが浜まで。武具も潮水に浸したくなけりゃオマトメを……旦那、その左手も気をつけて。金属だから錆びちまうやも」
「心配無用だ。泳ぐ必要すらねぇ。ベテランのバード様がいるからな」
セラドは得意そうにニヤついて、フルートをクルリと回した。トビーは「へぇ?」とだけ言って説明を続ける。
「食糧は2日分。現地調達もできヤスが、念のため。アッシが担ぎヤス」
トビーが説明しているあいだに、フロルグたちはテキパキと準備を進めてゆく。錨を下ろし、縄梯子を垂らし、トビーの前に大きな背嚢をふたつ置いた。
「あ? お前も来るのか?」
セラドが片眉を吊り上げる。トビーは胸を膨らませて頷いた。
「エエ、エエ。この島の森は険しい。案内役が必要でサ。追加の駄賃は要りヤセン」
「詳しいのか」
「ンー? 詳しくはありヤセンが……エエ、多少は。最後に来たのは組合が猫サンたちに喧嘩を売るまえだから……エー……」
「頼りねぇなぁ。フェルパーはどのあたりに住んでるんだ?」
「サー? ……御自宅には招待されず仕舞いで。アッシらはたまたま彼女たちの水浴び場に辿り着きヤシてね。以降はそこで何度か物々交換を。島の樹木から採れる乳香にはね、薬用効果があるんでサ。それがまたイイ香りで。大陸の御夫人に大ウケ」
トビーがケケッと笑い、商売人の顔を覗かせる。
「で? その水場に行けば会えるだろう、ってか」
「エエ、エエ。まだそこを使っているか保証はできヤセンが」
セラドは「フン」と鼻を鳴らして顎をさすり、「どうする」とヘップに言った。
「案内をお願いして水場を目指しましょう。闇雲に歩き回るよりもいい案です。トビーさん、森に危険な動植物や魔物は?」
「お天道様が顔を出してるあいだは平和な森でサ。当時は罠もありヤセンでしたし」
「罠?」
「エエ、エエ。組合のヤツらはこれまでに5回この島に殴り込みヤシたが、回を重ねるごとに森の罠は凶悪になっていったって話でサ。実際、ビスマのおっきな診療所が怪我人で溢れかえって……」
「おっかねぇ。ま、オレらにゃ最高のシーフがいるから安心だ」
セラドがヘップの肩を叩く。
「気ぃ抜くなヨ」
ルカも、小さなリーダーの背中を叩いた。
「えー? ええ、まあ……。でもアウトドアの罠は自信ないなぁ……」
◇◇◇
「うぇ、なんだヨこの虫!」
湿った地面に列をなすおぞましい虫を、ルカは慌てて飛び越える。鬱蒼とした樹木が日差しを遮り、代わり映えのない景色は方向感覚を失わせる。すでに西も東もわからなくなっていたルカは、トビーの曖昧な記憶とホーゼの
「ったく。ダンジョンより厄介だな。草はボーボー、空気はジメジメ……」
「同じところをぐるぐるしてる気持ちになりますねー」
セラドとサヨカも同じなのだとわかり、ルカは少し安心した。
ヘップは見事なもので、集中力を維持したまま、ダガーで枝葉や草を切り払いながら進んでいく。まだ生きている原始的な罠を見つけては迂回し、必要があれば手際よく解除する。襲撃者がいなくなって久しい今、大半の罠は朽ち果てその役目を果たしていなかったが、油断はできない。途中休憩を挟みながら、川に沿って丘陵の急坂を登ってゆく。しばらくすると、川とは異なる水の音が混じりはじめ、その音は次第に大きくなり――森が途切れた。
視界いっぱいに飛び込んできた圧倒的な景観に、ルカは言葉を失った。
どうどうと音を立てて真っ白な水しぶきをあげる巨大な滝つぼは、数十人が悠々と泳げそうなほど広い。大量の水を絶え間なく落し続ける
「ここでサ。ここで猫サンたちは水浴びを」
「ホッホ! これは素晴らしい。神秘的。滝から微量ながら魔素を感じますぞ……」
ホーゼの声につられて水面に近づいてみると、思わず飛び込みたくなるほど澄んでいた。
「フェルパーは……見当たりませんね。気配もなし。しかも行き止まり」
肩を落とすヘップを見て、ルカは自然と口を開いた。
「上はどうヨ。登ったら何かわかるかも」
「登る? この断崖を、ですか?」
ヘップは戸惑いの顔でルカを見上げて、滝を見上げた。
「そう。アタイが」
「ルカさんが? どうやって……」
「手と足で。高さだけなら故郷の遊び場と変わらない」
「上を確かめるのはいい案ですが……ホーゼさんが杖で飛ぶ、とか……」
「ホッホ、残念ながら私の浮遊は風に弱く、私自身も高いところが苦手でして……」
「ってわけで、アタイに任せな」
だが、そのまえに――。ルカは、太陽の光が揺れる水面を凝視した。いますぐ防具を脱ぎ捨てて、潮でベタついた体をどうにかしたい欲求に駆られる。
「おっさきー!」
浮かれた声とともにルカの横を走り抜けたのは、セラドだった。いつの間にか下着一枚になっている。ルカは悪態をつこうとしたが、彼の全身に刻まれた古傷――それに最近増えたばかりの癒えきらぬ傷を見てしまい、口をつぐんだ。
「うっひょー!」
セラドが水に向かって跳躍し――
「ちょ、アバァ」
――ようとした瞬間、彼の目の前に長い棒のようなものが突き刺さり、咄嗟に体を捻って避けた勢いで錐もみ回転しながら水没した。
(槍……?)
水際に刺さった棒の根本に、槍の穂先らしき金属――十文字槍の鎌枝のような――が見える。
「上です!」
ヘップが動揺混じりの声で叫んだ。鋭い感覚を持つ彼ですら察知できない相手ということだ。視線の先を追うと、崖の上に人影が並び立っているのが見えた。6人。
「これより奥はフェルパーの領域です。いますぐ立ち去りなさい」
滝から降り注ぐ水のように、清らかな声がこだました。女の声。有無を言わせぬ威厳がある。
「あぁー!? いきなり棒切れ投げつけやがって! やんのか!?」
水面から顔を出したセラドが叫んだ。トビーがセラドを庇うように水際に立って、手をブンブンと振る。
「覚えちゃいませんか!? むかーし世話になったトビーでス!」
「私の知人に喋るカエルはいません」
あっさり撃沈したトビーがうなだれた。続いてヘップが数歩前に出て、降参するように両手を軽く上に挙げた。
「オイラの名はヘップ。ドゥナイ・デンから来ました」
「ドゥナイ・デン?」
落ちてくる声の調子がわずかに変わった。
「はい。かつて地の厄災を討った戦士たち。彼らの依頼により、フェルパーの女王ドーラさんに会いに」
「その戦士たちの種族と名を、すべて言えますか」
「え? 種族と名前……えーと、ドワーフのバグランさん。ワーウルフのトンボさん。ブラッドエルフのアンナさん。オーガのフロンさん。バァバは……バァバはえーっと、人間? なのかな? それに、フェルパーのドーラさん」
しばしの沈黙のあと、声の主と思われるひとりが断崖から飛び降りた。しなやかな動作で小さな岩棚から岩棚へと飛び移り、あっという間に一行と同じ土を踏む。ルカは崖の上に残った5人に注意を払いながら、初めて見る種族を入念に観察した。
獣人はたいてい前傾姿勢を取るが、彼女は背筋を毅然と伸ばして近づいてくる。二足歩行の脚は猫に似て、素足、爪先立ち。所作の端々から気品が窺える。背丈はヘップより遥かに高く、セラドよりは少し低い。
猫人族という名のとおり、頭部――首から上は、わかりやすく猫そのものだ。ブロンズ色の大きな目。短めの耳がピンと立ち、鼻口や髭も、そこらで見かける猫と変わらない。顔を含め全身を覆っている
ほどよく筋肉がついた丸みのある体の輪郭は、猫人族の特徴なのか、性別によるものなのか、わからない。布着の上に身に付けている金属製の防具は黄金色で、太陽の光を受けて輝いている。ウォリアーやパラディンのような重装戦士とは異なり、胸部、前腕、膝だけを防具で覆う点は、ルカの装備にも似ている。
尻尾も見えた。その大部分は背後に隠れているため正確な長さは不明だが、わずかに揺れる尾の尖端に、
ほかに武器になりそうなものは携帯していない。
(あの槍か)
ルカが水際に刺さったままの槍に注目したとたん、フェルパーの右手と槍が、稲妻のような光で結ばれた。こちらが身構える暇もなく、槍が引っ張られるように飛んでフェルパーの手に収まる。
(物体を操るスペル?)
「ジーラと申します。ドーラは私の祖母です」
先ほどまでの声色と打って変わり、どこか幼さを感じさせる柔らかい声だった。
「ジーラさん、あらためまして、ヘップです。セラドに、サヨカ。ルカ、ホーゼ。トビーさんは船乗りで、案内役です。彼はかつてドーラさんと交流があったそうで」
「ケケ。お孫サンでしたか。ドーゾヨシナに」
ヘップが手短に仲間を紹介すると、ジーラは大きな目を素早く動かして一行を見澄ます。
「詳しい話は上で伺いましょう」
「あ? 上? こんなの登れるかよ」
ズブ濡れのセラドが喧嘩腰に言うが、ジーラは気に留めず崖の上に合図を送った。
直後。大きな影が、一行の足元を通り過ぎた。
空を仰ぐと、太陽の光を遮り飛翔する怪鳥のような生き物が見えた。5体。それらは優雅に翼を広げて滑空し、大きく旋回すると、降下をはじめた。ルカとセラドが臨戦態勢をとる。
「安心してください。敵ではありません」
ジーラが言った。
翼の主たちは、手綱を握る乗り手に促されてゆるやかに着地した。それは怪鳥であり、四つ足で立つ獣とも言えた。頭部や前脚を含む前半身は巨大な
「わぁ、すごい。可愛いですねー」
サヨカがいまにも撫でに行きそうな顔をしている。
「おいおい普通はダンジョンにいるヤツだろこーゆーの。馬か鳥に乗れ。オーガが乗ってるバケモノ亀といい、一体なんなんだよ」
「バケモノじゃない。ドラゴンタートル」
ルカがジロリと睨むと、セラドは「ドラゴンかタートルに乗れよ……」とボヤいた。
「ホッホ……グリフォンによく似ておりますが……亜種ですかな?」
杖に乗ったホーゼがフワフワと近づき、興味津々の顔で観察する。
「ヒッポグリフです。私たちヴァルキリーの友。賢く穏やかな性格ですが、敵意には敏感なので気をつけてください」
ジーラが紹介すると、乗り手不在の1頭が彼女に歩み寄った。その頭をジーラが撫でる。
ヴァルキリー。聖女戦士。
カナラ・ロー大陸にはいくつもの神の名が存在するが、そのひとつ『光の乙女』ミーニルを信仰する聖女戦士がヴァルキリーである。求められる信仰心、成すべき修練、守るべき戒律、すべてを満たせるのは女性だけであり、種族についても厳しい制約を受けるため、非常に希少なクラスと言える。彼女たちは長槍を駆使した中・近距離戦闘を得意とする一方で、プリーストやパラディンに似た神聖系統のスペルも使いこなす。
「ホッホ。実に興味深い。ヴァルキリーは天を駆ける……文献で読んだことはありましたが、なるほどなるほど、そういう意味でしたか」
「ひとりずつ、私たちの後ろに騎乗して、背中にしっかり捕まってください」
軽い身のこなしでヒッポグリフにまたがったジーラが、きびきびと指示を出す。
◇◇◇
フェルパーの村は滝の上、水流の激しい川から少し離れた森にあった。
ヒッポグリフに運ばれながら俯瞰すると、間引いて風通しを良くした木々の上部に、木製の床板が張り巡らされていた。まるで空中にもうひとつの地面があるかのような床板の上に、大小の小屋が見える。床はいくつかの区画に分かれているらしく、それぞれが吊り橋で結ばれていた。
ヒッポグリフの離発着場のような一画で下乗した一行は、ジーラを先頭にして吊り橋を渡る。セラドは下を覗いた。草が生い茂る地面まで30メートルはありそうだ。
「酔っぱらって落ちるヤツがいるだろ」
「私たちは酒を
「酒を飲まない……だと……?」
セラドは耳を疑った。
吊り橋を渡った先の区画では、数名のフェルパーが行き交っていた。麻糸で織ったような、簡素な服装。いずれも人間の女性と同じ位置に乳房のふくらみがあった。こちらを気にしている様子は伝わってくるが、じろじろと見てくることはない。セラドは背筋と尻尾をピンと伸ばし二足歩行で歩く彼女たちを目で追いながら、口笛を吹いた。
「女ばっかだな」
「男は別の区画で暮らしています」
「へぇ。可哀想なこって」
「何人……ニンでいいのかな。この村には何人くらいいるのですか?」
ヘップが尋ねる。
「今朝がた子が生まれ、152名になりました。……この村には、との質問ですが、私の知る限り、他の場所にフェルパーはいません。いまはここがすべて」
ジーラは、先頭を歩きながら振り向かずに答える。
「で、女王様はどこにいるんだ?」
セラドの問いに、ジーラは立ち止まって振り向いた。
「いまから案内しますが、どうか冷静に」
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