第235話 後ろからそっと

 様々な思惑が入り乱れた夕食会は、最後のデザートを食べ終えて、暫し歓談の時間となっていた。

 休む事無く動き続ける真理子を、大森はずっと目で追いかけていた。

 先ほど、幸からの申し出・・・・「一緒に中東に来てほしい」と言う誘いに、正直困惑していた。

 それを、一体誰に相談すれば良いか、真理子を見ながら大森は考えていたのだ。

 幸と共に中東へ行くことは、全く問題無かった。むしろ、それを自分から申し出ようとしていたほどだ。

 まさか幸を一人で中東へ行かせる訳には行かない。しかし、今回の旅は、とてつもなく危険なものになるのは明白だ。

 独身貴族を貫いてきた大森にとって、命の危機など人生を彩る要素程度のものだった。しかし、憧れであった真理子先生が目の前に居る現在、全てを投げ捨てて、彼女と共に生きる道が何度も脳裏を過ぎった。

 それは、この中東ミッションが成功した場合、再び真理子を失うリスクも含まれている。

 それだけは絶対に避けたい。

 自分が無事に日本に帰国出来たとして、真理子先生がまだ現世に留まり続ける事が出来たのならば、自分はジャーナリストから足を洗い、真っ当な職に就く事すら選択肢に入っていた。

 自分も30代の後半に差し掛かり、真理子も40歳、結婚を申し込むなら、今がラストチャンスだろう。

 大森は、台所で水仕事をしている真理子を、後ろから静かに眺めていた。


「なあに、見ているなら手伝って頂戴、大森君」


 そんな他愛のない会話が、大森には嬉しかった。行方不明となっていた彼女を思えば、こうして再び会話が出来る事が、どれほど幸福な事か。

 大森は、真理子に言われるがまま、食器荒いを手伝い始めた。


「真理子先生は、結婚とか、考えなかったんですか?」


「え・・・・だって、こんなおばさん、だれも貰わないわよ」


 真理子は笑いながらそう言う。

 大森は、言ってしまおうか迷っていた。


「そんな事無いですよ、真理子先生、今でもとてもお綺麗です」


「あら、大森君はそんなお世辞言えるようになったのね」


「自分、もう36ですよ」


「そうよね、私も年を取る訳よね」


「先生、お互い独身同士、少し慰め合いませんか?」


「アハハ、なーにーそれ、もしかして誘っているつもり?」


 大森は何も語らなかった。

 その沈黙が、全ての答えでもあったろう。

 正直なところ、真理子も大森が自分に対して恋愛感情を抱いていた事は、学生時代から知っていた。

 どうして今までそんな事を言わなかった大森が、ここへ来てそんな事を言い出すのか、そこが不明ではあった。

 そして、真理子にはもう一つ気になる事があった。それは、幸から聞いた名前「マリト」である。


「ねえ大森君、こんな事を言えば、おかしな人間だと思われるかもしれないけど、私ね、向こうの世界にラジワット君との間に子供が居たらしいの。信じられる? 私とラジワット君よ。あんな弟みたいな彼との間に、子供ができるなんて」


「先生・・・・でも、そんな世界が、もしかしたらあったのかもしれない。立花君が言う通り、二人の間にマリト君が居たのかもしれない。しかし、真理子先生は、現実に今、こうしてここに居るじゃないですか!」


「そうね・・・・ごめんなさい、私、大森君の事は、決して嫌いではないの。正直、さっき誘ってくれたのも、嬉しかったくらだもの。でもね、どうしても気になってしまうの、マリト君の事。記憶に無いはずなのに、マリト君の顔が私には思い描く事ができる。これは一体、どういう事なのかしら」


 その一言を聞いた大森は、血の気が引く思いだった。

 せかっく真理子との再会を果たしたと言うのに、真理子は再び異世界へ行ってしまうのではないか。どうして経験もしていない異世界の事が、真理子の記憶に存在しているのか。

 それは、真理子が異世界へ行った世界線と、行かなかった世界線が相互干渉している事は明白である。

 ならば、今の真理子と言う存在は、とても不安定で、不確定であると言うことになってしまうではないか。


「真理子先生・・・・」


 大森は、真理子を後ろからそっと抱きしめた。

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