第140話 だめ、ユキちゃん、戻って!

 幸とラジワットの二人は、深夜になるのを待って行動した。


 さすがに、昼間に動く事は、どうにもできない状態だ。

 昼間、あれだけ地面を埋め尽くしていたタタリア騎兵も、さすがに深夜になると眠りに就き、辺りは静まり返っている。

 幸運な事に、新月の直後であるため、この夜は暗夜だ。

 それでも、タタリアの壮大な草原地帯は、まだ雪が少ないものの、星明りでも十分に視認出来るほどに星が瞬いている。

 

「ユキちゃん、絶対に声を出してはダメよ、いいわね」


「ク、、、ウェー・・」


 本当にユキちゃんは、人間の言葉が理解出来ているとしか思えない。

 小さく返事をするユキちゃんに、幸はしがみついていた。

 ラジワットは、いざという時に備えて、旅の行商人と言い訳が出来るよう、ユキちゃんに幸と荷物を乗せて移動した。

 ユキちゃんに乗りきらない荷物は、全て捨てた。

 この逃避行に、もはや荷物は必要ない。

 もし、無事にこの大軍の群を通過することが出来たならば、それはその時に考えれば良いのだから。


 深夜の高原は、とても不気味だ。

 吐く息が白く、それ自体が目立っているようで、幸は思わず息も控えめにするほどの緊張感が存在していた。


「よし、いいぞ、その調子だ、この時間帯なら、さすがに兵士も少ない」


 ラジワットは、賄賂として準備した金貨を握り締めていた。

 それは、どんなに静かな荒野であっても、結局検問所を通過することには変わりないのだから。

 今、時間で言えば午前2時くらいだろうか、寝静まった騎兵のキャンプ地の、相当に奥深くまで入り込んでいた。

 そんな荒野の奥に、一際明るい場所がある。

 タタリアの検問所だ。


 ラジワットも、正直かなり迷っていた。

 

 このまま進めば、間違いなく怪しまれる。

 こんな時間に、旅の行商人が通行なんてするはずがない。

 この検問所の灯は、通行人のためのものではなく、襲撃に対応するための物だ。


 それを、あえてこの時間を選んだのは、やはり賄賂を渡して通過できないかと踏んだためである。


 いよいよ、検問所が見えて来た。


「おい、何だお前たち、止まれ!」


 やはり、検問所は通行人をただの行商人とは見ていない。

 ラジワットが予想したよりも、よほど警戒感の強い状況だ。


「何だ、こんな時間に、お前たち、民間人ではないな?」


 検問所の番兵がそう言うと、ラジワットが事情を説明するよりも早く、奥から予想以上の番兵が出て来てしまった。

 これは、ラジワットにとって誤算であった。

 深夜の番兵程度なら、全員に金貨を賄賂として配れば、もしかしたら通過できるのではないか、という淡い期待は、無残にも砕け散った。

 

 そして、ラジワットには、最後の選択肢しか無くなってしまったのだ。


「私達は、旅の行商人です、この先のバザールに、どうしても明日までに届けなければならない荷がございます、どうか通行の御許可を頂きたい」


 それは、全く噛み合わない会話と言えた。

 番兵は、怪しいから止まれ、と言っている、それを、早く荷を届けたい、という理屈で通ろうとしても、通れるはずはない。


 幸は、もう心臓が飛びだすほどに、緊張がピークに達していた。

 もう、殺されてしまう。


 その時だった。 

 ラジワットの鋭い剣が、荷を確認しようとした番兵を、声を出す間も無く切り裂いたのである。


 幸は、目を疑った。


 この状況で、剣を抜くなんて。

 ラジワットは、幸を抱き寄せると、それは、幸が一番恐れていたことを、その口が語るのである。


「ミユキ、君は生きろ、生きて皇帝陛下に謁見するんだ、必ず!」


 そう言い終わると、幸が嫌だと発する前に、その口を、ラジワットの唇が塞いだ。

 

 まさか、こんなキスがあろうとは。

 まさか、こんな切ないキスがあろうとは。

 まさか、それが別れの挨拶となろうとは。


 ラジワットが、ユキちゃんの身体を思いっきり平手で叩く。

 ユキちゃんが、それを合図に全力で走り出す。



「行け!、そのまま走り抜けろ!」


 ラジワットが、声を振り絞ってそう叫ぶと、まるで全てを理解したようにユキちゃんは幸を乗せたまま、全速力で国境を目指して走り出す。


「だめ、ユキちゃん、戻って!、だめだって!、ねえ!、ねえ!、・・ラジワットさん!、こんなの嫌だよ、私、貴方と一緒がいい!、こんな別れ方、絶対に嫌だよ!、嫌だよ!」


 振り向くと、襲いかかる番兵の群に、一人剣を振るうラジワットの勇士が見えた。

 幸にも、それが別れの旅立ちであることが、痛いほど理解出来た。



 そして、幸は再びラジワットの名を叫ぶ。

 渾身の想いを込めて。

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