第2話 荒ぶる感情で精一杯

「あの、、、ありがとうございます、、、日本語、解りますか?」


「無礼だな、解るに決まっているだろ、私も日本人だからな」


 いや、全く信じられない一言だった、それは、悪者が自分は悪者だと言わないように、幸には「私は外国人で、人身売買をしている者です」と言われているように感じられた。


 それまで、貧しいながら平凡だった自分の人生に、何か一度に色々な事が起こり過ぎて、幸は少しパニックになっていた。

 


 家に帰りたい。



 ただ、それだけを願い、自分は自分の置かれた立場がとても惨めに思え、なんだか急に悲しくなった。


「私を、私を家に帰してください、、、」


 ようやくその一言が言えると、幸はとうとう泣き出してしまった。

 目の前の石油王は、意外にも幸の涙に少し動揺したようだった。

 

「わかった、準備の時間をやろう、まずは家に帰りなさい、送るから」


 そう言うと、男は、先ほど投げた中年男性をギロリと睨み、手に持っていた「肩たたき券」を奪い取ると、股間を思いっきり蹴り上げ、幸の手を引きながら古い家屋を後にした。


 一瞬だけ、ヒーローだと思った自分が、なんだかバカみたいに感じられ、時間が経つとともに、余計にバカバカしくなってきた。

 「男はみんな狼」、そんな定番のフレーズが、今回ばかりは本当にそう感じられた。

 まあ、今自分の手を引く男も、豹変するまでもなく、狼のような精悍な顔立ちに、鍛え上げられた肉体、まるで西洋の彫像のようだ。

 そして、自分はその男の野太い手に引かれながら、まるで連行中の犯人のようだった。


 ああ、自分はさっきの気持ち悪い中年男性から、この孤狼のような男に変わっただけで、きっとエッチな事をされるんだ、そう思った。

 そして、なにかとてつもない怒りがこみ上げると、幸は男の手を振りきって逃走したのである。


 100m程度本気で走り、少し振り返ると、男は追ってくる気配がない。

 小柄な体格ながら、陸上競技で鍛えた駿足だけは自慢だった。

 これも経済的事情により、球技などの部活に入れず、「走るだけなら無料」という貧しさ故の特技であった。

 こうして、幸の人生に訪れた初めての「貞操の危機」は未遂に終わり、家路につくことになったのである。

 この時、警察に一報するなり、学校に相談するなりしていれば良かったのだが、幸の心理状態としては、一刻も早く自宅に戻りたいと、それだけを考えていた。

 普段は殺風景で、父親のだらしない生活臭のするアパートなど、決して好んで帰りたいと思わない空間であるが、今日だけは、早く帰って制服を脱ぎ、布団にくるまって全てを忘れてしまいたいとだけ、考えていた。


 気持ち悪い、そして、怖い。


 幸の心は、既に荒ぶる感情で精一杯であった。


 そして、アパートの玄関前に到着し、それはほんの少しの違いと言えたが、その時はほとんど気にしなかった。

 ドアには、一枚の張り紙がしてあった。

 幸は、その張り紙を読む事なく鷲掴みにすると、家の鍵を開け、張り紙を放り投げた。

 そしてカバンを放り投げるとそのまま、布団に入って泣いた。


 悲しかった。


 こんな時、相談できる友達も、親もいない。

 なにしろ、電話も止められているのだから。


 幸は、父親の素行の悪さから、学校でもいじめの対象にされていた。

 それ故に、ほとんどの同級生は彼女を避けていた。

 親友の倫子だけが、唯一自分の話を聞いてくれそうだが、

 冷静に考えて、自分が置かれた状況が、段々恨めしくもなり、それが余計に涙を助長したのである。


 こんな人生なんて、これからもきっと、いい事なんてない


 幸は自暴自棄になり始めていた。

 これがもう少し気の強い少女であれば、不良少女に変貌していたかもしれない。

 

 しかし、幸には、そんな勇気も財力もなく、ただ現実世界に怯えるしかなかった。


 そして、アパートの階段を上ってくる足音が聞こえる。

 父親、、、?、もしやさっきの石油王?

 嫌だ、きっと私をさらいに来たんだ。


 自暴自棄になった幸は、台所から包丁を持ち出すと、玄関前まで来た男の影に、ただ怯えていたのである。

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