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 二番線ホームに電車が入ってくるアナウンスで、修司は目が覚めた。


 夢を見ていた。

 永時と海に出かけた日の夢だった。


 一年前にもなるあの外出に、修司は頬を緩めた。


 海の方面へ向かう電車に一人で乗り込む。

 あの日と同じ時間揺られ、同じ駅で降りて、バスに乗る。おんなじようなキャベツ畑の間を、修司一人だけを乗せてバスが走っていく。

 同じバス停で降りて、てくてくと歩いて行く。砂浜に続く階段が見えてきたけれど、そのまま素通りして道路を歩き続けた。


 暫くすると、小さな入り江になっているところに出た。入り江に小さな、人一人が通れる幅の階段があった。それを昇っていく。口元のマフラーから、白い息が零れ出た。


 階段を上っていくと、海を見渡せる高台に出た。高台は墓地になっていて、白く、平べったい四角い石が地面に埋まっている。

 他の人はいない。修司は、固まった心をほぐすように大きく息を吸って、吐き出した。

墓石の中の一つの前に、ゆっくりと近づいていく。白い墓石の前に、恭しく跪く。買ってきた白いかすみ草と小菊の花を供えて、ようやく修司は今日初めての声を出した。


「来たぞ、永時」


 墓に刻まれた『朝倉永時』の名前に、呼びかけた。

 修司の声をさらうように、海風が強く吹いて、大きく髪を乱していった。


    *


 分厚い雲が広がる空から、ちらちらと雪が降り始めた。


 一年前のこんな日に、永時は死んだ。

 心臓移植の手術を一週間後に控えた時期だった。容態が急変して、集中治療室に運び込まれた永時は、一時は容態が安定したが、明け方、そのまま静かに息を引き取った。

 ちょうど米国では、リアム少年から心臓を取り出そうとしていたところだったらしい。それを拒むかのように、永時の心臓は、永時の体の中でひときわ強く脈を打った。まるで、まだ動ける、とでも言うようだったと、永時の面倒を見ていた看護師が言っていた。


 父に連れられて訪れた病院の霊安室で、息をしていない永時を見たとき、両腕がぴりぴりと痛くなった。


 前の日、宮沢賢治詩集を持ってきてくれ、と言っていたのに。


 ちゃんと持ってきたのに。


 雪がしんしんと積もって行くみたいに、目の前が真っ白になっていくような感覚に襲われて、修司はその場に膝をついて、冷たくなった永時の横顔を見つめることしかできなかった。


 やがて、永時の両親が来て、遠くで暮らす他の従兄弟たちもやってきた。修司の父も仕事に都合をつけて来てくれた。

 通夜の間、少し年の離れた従兄弟たちと一緒に、永時の眠る棺の傍で夜を過ごした。火葬した永時のお骨を箸で骨壺に運び、墓地に埋葬するまで、修司は一言もしゃべらなかったし、涙も流さなかった。


 そうやって、すべてが終わった。

けれど、永時がいないことに実感が湧かなかった。まだ、どこかで永時が病室で待っているような気がした。

 永時が使っていた病室は、他の患者が使うようになった。修司が、リハビリ以外に病棟に向かう意味がなくなってしまった。

 そうなると、永時との思い出がたくさん残る病院には、自然と足が向かなくなった。かといって勉強に打ち込めるほど、勤勉じゃなかった。ある日、修司は学校を休んだ。それからずるずると休み続け、立派な不登校児にできあがっていた。


 そんなとき、文芸部顧問の魔女先生が家にやってきた。


 魔女先生は穏やかな笑みを浮かべながら、上がってもいいかしら、と手に持ったバスケットを修司に見せた。

 家に上がった魔女先生は、まず居間にある小さな仏壇の前で正座して手を合わせた。仏壇には永時の写真が飾られている。写真の中の永時を、魔女先生は切なそうに見つめた。


「永時くん、文芸部に来てくれたのは、最初の一回だけだったかしら」

「そうですね……先生、焙じ茶で好いですか?」

「えぇ、ありがとう」


 修司は台所でお湯を沸かし、焙じ茶を淹れた。

 その隣で魔女先生は、持ってきたバスケットを開けた。中は保冷剤が大量に入っていた。冷たい冷たい、と言いながら出したのは、アルミの大きな缶と、アイスをくりぬく大きめのディッシャーだった。


「修司くん、小皿、お借りしていいかしら」


 棚からガラスの小皿を出して手渡すと、魔女先生は持参したディッシャーをかちかちと鳴らした。焙じ茶を淹れたお湯を使ってディッシャーを温めながら、缶の蓋を開けた。白い煙を上げながら出てきたのは、まっさらな新雪のような、アイスクリームだった。


「お菓子ってね、魔法なのよ」と魔女先生が呟いた。


「お菓子を食べることで、その人に思いをはせることができる、魔法なの」


 そう話す魔女先生は、寂しそうに瞼を伏せて、アイスクリームを掬っていた。

 ディッシャーで器用に丸めたアイスを自分用と、修司の分とそれぞれ盛り付けて、居間に持って行く。アイス用のデザートスプーンも持ってきたらしく、居間のちゃぶ台に丁寧に置いた。


「こんな冬に、アイスクリームですか」

「こんな冬だからこそよ」


 そう魔女先生は微笑んだ。

 いただきます、と手を合わせて、スプーンでアイスをすくって口に運ぶ。

 バニラとは違う、やわらかくやさしいミルクの素朴な味が、口の中にほどけていく。冷たいのに、じんわりと熱で溶かされて、温かくなってのどの奥に流れていった。溶けてしまっても、口に残るやさしい余韻に、不意に修司は目頭が熱くなってしまった。


「春澤くんは、宮沢賢治の『永訣の朝』って、読んだことある?」


 怖いくらいに静まりかえった居間に、スプーンと小皿がぶつかる音だけが響く中、ふと魔女先生が口を開いた。

 心臓が少し跳ねた気がした。

 宮沢賢治。永時が持ってきてくれと言っていた作家だ。


「妹のトシとの、別れの詩とも言われているわ。『あめゆじゅとてちてけんじゃ』この言葉も有名ね。病床に伏せるトシが、賢治に雨雪を取ってきてほしい、ってお願いするの」

 宮沢賢治の『春と修羅』は、一度だけ読んだことがある。けれどむずかしい言葉遣いに挫折した。二代目部長は『春と修羅』の内容をすべて諳んじることができたと聞いたことがあったけれど、無理だ、と感じたのをよく覚えている。

「『永訣の朝』に、こんな文章が出てくるの。『おまへがたべるこのふたわんのゆきに わたくしはいまこころからいのる どうかこれが天上のアイスクリームになって おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ』」


 トシのために雨雪を取りに駆け出し、その雨雪が姿を変え、天上のアイスクリームとなってほしいと読まれているのだ。


「だから……アイスクリームですか」


 そうよ、と魔女先生は頷く。

 もう一口、アイスクリームを口に運ぶ。

 つめたくて、でもこんなにあったかいお菓子に、とうとう修司は一粒の涙をこぼした。

 そんな修司の様子に魔女先生は気づかないのか、たんたんと語っている。


「賢治は、少ないお給料で牛乳と卵と砂糖を買って、トシに作ってあげてたんですって。冷たいアイスクリームは、熱い体をほどよく冷やすのにもってこいだったし、材料は栄養のある牛乳と卵で作られてるわ。現代のアイスだと、いろいろ添加物とか混ざってるからお勧めはしないけど、混じりけのない、純粋なアイスクリームは、トシの体を癒やしてくれたのかもしれないわね」


 病床の妹に、幾度も食べさせたあアイスクリーム。賢治はそこに、並々ならぬ思いを込めていたのだろう。


 永時が熱を出したとき、処方されたのは薬と点滴だけだった。あのときも、デザートの話をすると、か細い声で「今はアイスが食べたい気分」と言っていたのを、今更に思い出した。


「永時にも、食べさせたかったな」


 そうね、と魔女先生も静かに頷いた。


 魔女先生が帰った後、まだ残っていたアイスクリームを、別の小皿に盛り付けて、永時の写真の前に供えた。これだけ? と怒られそうな気がした。


「まだこれだけ。ちょっとずつな」


 アイスクリームは、修司のおなかの中で熱くなっていったような気がした。 


    *


 雪が降ってきた。


 永時の墓の前に座って、ここ最近のことを話していたら、二時間以上が過ぎていた。


 永時が死んで一年が経った。引きこもり始めても、父は無理に学校に行けと言わなかった。家にいるのなら家事を頼むよ、と頭を撫でて仕事に出て行った。

 初めのうちは、何もせずにベッドで猫みたいに丸くなっていた。そうすることで、何も考えないようにしていた。


 けれど、一週間が経ったある日、魔女先生がお菓子を持って訪ねてきた。それから、少しだけ修司の心に変化が起き始めたのだ。

 ずっとすっぽかしていた父からの指令を仰せつかい、修司は少しずつ、ベッドから這い出して家のこと全般に手をつけ始めた。なんだかんだ、体を動かしていると気が紛れるのは本当らしい。一週間もすると、普通に朝起きて学校に行く支度ができるようになった。


 今では、両腕が義手なだけの、どこにでもいる普通の中学生だ。


「永時の書いた話も、読んでみたかったなぁ」


 少しずつ積もっていく雪を眺める。修司のダッフルコートの肩も、雪が積もって白くなっていた。


「また来る」


 よっこらせ、と立ち上がる。次はちゃんとお菓子持ってきてよね? なんて声が聞こえてきそうだ。

 帰りにアイスクリームでも買っていこうかと思案しながら、もう一度、永時の眠る墓に手を合わせた。

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